学園三年生 後編
その翌日。
シラーから手紙を受け取り慌てて帰宅した人物がいた。
その人物は手紙を読んだ瞬間に全てを投げ出して馬車に乗り込み、夜通し駆けて公爵邸へとやってきた。
「シャル…ッ!」
バンッと明け方近くに部屋のドアを開いて転がり込んできたのは、エマ・レンゲフェルト。シラーの愛してやまない妻である。豊かな黒髪を乱して、どうやら馬車からここまでも走って来た様子であった。
扉の開く音で目覚めたシャルロッテが眠い目をこすって「え…?」と半身起こして固まっている間に、エマは崩れるようにベッドに伏せて泣き出してしまう。
「ごめんなさい…!私たちが…あなたをそんなに不安にさせていたなんて…!」
「え、いや…え?」
窓からうっすらと差し込む朝日と、廊下の光に目をしょぼしょぼとさせたシャルロッテは大いに慌てた。エマを泣かすと魔王が来る。公爵家の不文律だ。これはいけない!と、脳みそは一気に覚醒し、シャルロッテは飛び起きた。
「お義母様、どうしたんですかいきなり」
「シラーから手紙が来て…シャルが、ど、どこぞの男の後妻になる気だって聞いて…!そ、そんな、わ、私たち…あなたに、何も伝わってなかったのに気が付いて…!ごめんなさい、ごめんなさい…」
泣いて途切れ途切れに謝るエマの言葉を拾えば、どうやらシラーから先日の話を聞いたらしいと理解した。彼女の手を握ってベッドへと引き寄せて、横に腰かけさせる。
「私、お義母様たちに大切にしてもらってること、ちゃんと分かってますよ」
「嘘よ、嘘…!だって、そしたらそんなこと言わないはずだもの…!可愛い娘を、ど、どうして、あ、あ、後妻なんかに!くれてやるものですか…!」
わぁっと泣き伏してしまうエマに、シャルロッテはおろおろと手を彷徨わせ、そっとその華奢な腕に抱き着いた。義娘の高い体温に、更に泣けて来てしまったのだろう。ボロボロと涙を頬にこぼすエマは、堪えようと上を向き目を閉じる。しばらくそうして泣いていた。どれくらい経っただろうか。シャルロッテが必死に「ごめんなさい、泣かないでください」と声かけを続けていれば、ちらりと瞳をのぞかせてシャルロッテを見た。
「あ、あなたが…そ、その男を愛しているのなら。それなら応援するわ!でも、でも違うのでしょっ…!」
その男とは誰だろうか。
ちらっと例えに出した、あのオジサマだろうか。
「ちがいますねぇ」
「じゃあダメよ!好きな人と結婚してちょうだい!…この際、あなたが好きなら誰でもいいわ。私が味方になる」
やっと体を起こしてくれたエマは、涙にぬれた瞳でじっとシャルロッテを見つめた。
そのけぶるような黒い睫毛に縁取られた目が、乱れた黒髪が色っぽくて…シラーが徹底して庇護する理由を体感するシャルロッテ。妻であり母であるのに、あまりに儚げである。悪い男が寄ってきそうだ。
エマの髪を整えてやれば、少し落ち着いたのだろう。
ぐすぐすと鼻をすすって伏目がちに、軽口のようにこぼす。
「…ねえシャル。クリスと結婚して公爵家に残る、とか。どうかしら?」
それに対してシャルロッテは「クリスには、学園でいい出会いがありますよ!」と、一笑に付した。まったくこれっぽちもその可能性を感じていなさそうな様子だ。
それを何か言いたげな顔でエマは見つめるが、しばらく考えてから小さく首を横に振った。
「シャルの気持ちが一番大切よ。もちろん結婚なんかしなくたって、ずっとうちに居てちょうだい」
「それは流石に申し訳ないです」
「ならラヴィッジ領を継いでもいいのよ!今している商売が楽しいなら、そうやって働きながらうちで暮らしてもいいの。公爵邸が嫌ならラヴィッジに来る?私だって別荘をいくつか持ってるから、そこをあげてもいいのよ?」
そっとシャルロッテの手を握って、優しく語りかけてくれるエマは「だから、無理して結婚なんてしなくていいの。…いえ、絶対にしないでちょうだい!娘を売るほど落ちぶれてないわ!」と、感情が昂ぶるままに再びポロポロと泣いてしまった。
「わ、わかりました。すみません、私が軽率でした」
「謝ることなんてないわ。愛情を伝えきれていなかった、私たち夫婦が悪いのだから…」
うるうるとした瞳が、本当に悲しそうにシャルロッテを見つめている。そこで初めて、シャルロッテはやっと『両親に申し訳ないことを考えていた』と気が付いた。
せっかく愛情かけて育てたのに…娘がまるで自分を、道具のように言いだしたら?突然、自分の利用価値を訴えてきたら…?
自分たちの愛情を、まるで無いものであるかのように振舞ったら。
こうして、悲しい顔をさせてしまうのだ。
(私、まだまだ子どもだったわ)
「お義母様…ごめんなさい」
「いいのよ」
エマと抱き合って朝日が滲むように空に浮かぶのを見て、シラーのところに謝りに行くのについて来てもらった。彼は仏頂面だったけれど、エマを泣かせたことを責めるでもなく「ようやく分かったか、馬鹿娘」と、ふんと鼻を鳴らして許してくれた。
「家族だと言っただろう」
そのしかめっ面のシラーの顔が、拗ねたクリスの顔にそっくりで。シャルロッテは笑ってしまった。
シラーはそんなシャルロッテの笑い声は無視してエマを抱きしめ、顔中にキスの雨を降らせる。甘やかな声で「エマが居てくれてよかったよ」とデロ甘い空間に執務室が早変わりしてしまった。シャルロッテは早々に退散しようとする。
「すぐ朝ごはんにするから、食堂に来なさい」
シラーの言葉を背中に受けながら、一時自室へ。
ちなみに、後ろにいるグウェインは号泣。
彼にも心配をかけたなぁと、シャルロッテは反省した。
これで、彼女の中でこの話は完結していた。
義父の顔を立て、将来については自分で勝手に決めない。
周りに大切にされてることを自覚する。
これで問題はないはず。
(とりあえずは独身の道も確保しつつ、この話題は掘り返さないようにしておこう)
万が一誰かを好きになれば『その人と結婚したい』と、エマに言ってもいいらしい。そんなこと考えたこともなかった。
とんだ親不孝娘である。
エマの涙は、中々胸にくるものがあった。
その後シャルロッテはエマとシラーと、朝ごはんを一緒に食べた。
のんびりと三人で食事をするなんて初めてのこと。
「じゃあシャルは、今はボードゲームの販売が一番楽しいのね」
「そうですね。あ、でも…最終学年だけ、学園に行くのもいいかなと思ってます」
そこでエマとシラーは、無言で顔を見合わせる。
二人が見つめ合うことなどしょっちゅうなのだが、いつもの甘い雰囲気ではなく…アイコンタクトで何やら話をしている様子。シャルロッテが二人の顔を交互に見て「どうしたんですか」と聞くと、シラーが「あー」とか「うー」とか口ごもってからこう言った。
「シャルロッテが自分の身の振り方を、不安に思っていることは理解した」
シラーは音をたてぬように注意し、手に持っていたカトラリーを皿へと置く。食事の途中であるが話に集中することを示すため、体の向きもしっかりとシャルロッテに向けた。
「それについては、自分のしたいようにして良いと言った。私もエマも、そう考えている。シャルロッテの人生は、シャルロッテのものだ」
「ありがとうございます」
「ただし、それは私たち二人の考えだ」
お義父様とお義母さま、二人の許可が出ていれば問題ないのでは…?と考えて、シャルロッテはハッと気が付いた。
そうだ、もう一人居る。
「クリスですか」
シラーは難しい顔で頷いた。
「そうだ。シャルロッテが学園に行きたい理由は何だ?もちろん、明確に希望があるなら、私たち二人が全力で援護をしよう。あいつはそう簡単には認めないと思うが…」
エマも大きく頷いてくれているが『おたくの息子さんが人を殺めるかもしれませんので、見張るために行きたいのですわ』なんてこと、シャルロッテは言えない。
「えっとぉ…将来の選択肢を広げるため、ですかねぇ」
無難かつ、具体的なことを濁した回答。
当然シラーは納得せず「領地経営がしたいのか?それとも城勤めを考えているのか?」と、シャルロッテの考える“将来の選択肢”が何かを、一つ一つ確かめるように聞いて来る。
「シャルロッテは突拍子もない考え方をするからな…」
「そうですか?」
こてんと首をかしげる義娘に、シラーは「だからエマが飛んで帰って来たんだぞ…」と苦虫を噛み潰したような顔をしている。その節はすみませんでしたと頭を下げると、エマが「シラー!シャルは悪くないのよ」とかばってくれた。
「まさかと思うが、この期に及んで婚約者探しのために行くとは言わないな?」
「違います!」
「ならいいんだが…今のままでは理由が弱いぞ。クリストフにも反対されるだろうし、私も賛成はできない」
「えぇ…」
「学園は玉石混交。危ない人間もたくさんいるんだ。シャルロッテが学園に通うことで得られるメリットよりも、デメリットが大きいように思える」
「でもクリスは通ってます」
「あいつはこの家を継ぐからな。それに、シャルロッテが思うほどヤワじゃない」と、シラーは右側の口角だけ器用に持ち上げてニヒルな笑みを浮かべた。
「それになシャルロッテ…今回の事、クリストフが聞いたらどうなると思う?」
意地の悪い顔である。
シャルロッテはちょっと考えた。邪魔者が居なくなったと喜ぶだろうか?いや、違う。彼が聞いたらそう、きっと…。
「……ものすごーく、怒る…」
「そうだな。結果として、またシャルロッテを外出させなくなるかもな。当然、学園なんて夢のまた夢だ」
「うぅ…」
シャルロッテがそれを聞いてうなだれていると、エマが哀れに思ったのか「ねえシラー、クリスには内緒にしておいてあげて。お出かけできなくなったら可哀想だわ」と懇願してくれた。シラーはエマのお願いに鷹揚に頷いたので、二人に「ありがとうございます!」とお礼を言う。
これでなんとかなる!と思ってスッキリした顔をするシャルロッテを見て、エマはきゅっと眉根を寄せた。
「でもねシャル。あなたが学園に行くのはとっても心配よ。一人になることがあると思うと、私も行かせたくないって思ってしまうわ」
「お義母様もですか」
義父、義母、義弟と、家族全員に反対されている学園行き。
ここまで言われているのに、さらにクリストフと大喧嘩してまで行くのは難しいだろう。
「学園行き、やめときます」
目に見えてしょぼくれているのに、健気に微笑んで告げるシャルロッテ。エマは思わず隣に座る夫に腕を絡めて「ねえシラー」と甘えた声を出す。
「入学しなくても、学園に遊びに行ったりできないかしら?クリスかアンネリアちゃんが案内してくれる時なら、私たちも安心できると思うの。なんとかできる?」
「もちろんだ」
愛しい妻のおねだりに即答する男。
(遊びに行きたいわけじゃないけど…行けないよりはマシね)
両親が自分を思って動いてくれるのに、わざわざ水を差すこともあるまい。「わあ、楽しみです」と言って、シャルロッテは残りの食事時間は明るい顔で過ごした。




