バレンタインSS
クリストフ・レンゲフェルトは早足に廊下を抜ける。
『お嬢様にチョコレート貰いました~! なんか今日はチョコレートを配る日って言ってましたけどぉ。え、クリス様貰ってないんですかぁ?』
護衛のくせにクリストフに遠慮も何もないハイジは、開いてるんだか閉じてるんだか分からないほどに細い目をニヤニヤと歪ませてこう続けたのだ。
『みーんな、貰ってますよぉおォ?』
蹴りつけてやろうかと思ったのだが、露骨に反応するのもハイジを喜ばせるだけだろうと、クリストフはガン無視してその場を去った。この先一週間ほどはハイジの存在を脳内から抹消しようと心に決めながら、早足に廊下を進む。
手に握っている本を執務室へと返しに行くところなのだ。無駄なタイムロスをして、予定を狂わせるわけにはいかない。
しかし。
朝食を一緒に摂った義姉であるシャルロッテは、特に何も言っていなかった。
「チョコレートを配る日とは……?」
使用人を労わる意味合いなのだろうか。
チョコレートは、少し前までは薬として扱われていたほどに滋養効果が高く、また価格もそれなりに高価な部類である。
使用人に労わりの意を込めて配るのであれば、最適な品である。そうだ、きっと使用人に対して配っているのであって、家族であるクリストフには渡すものではないのではないだろうか。と、クリストフが内心の落ち着きを取り戻したところで、ちょうど目当ての執務室の前にたどり着いた。
「失礼します」
コンコンコンとノックをしてから声を発すれば、「どうぞ」と穏やかな家令のグウェインの声が、いつも通りの静寂が満たす執務室へと招き入れてくれる。それにホッと心を落ち着けたのもつかの間、クリストフは気が付いてしまった。
(……お父様の机の上にあるのは、さっきハイジが見せて来たチョコレートでは?)
サッと視線を巡らせれば、やはりグウェインの机の上にも同じく、黒い高級感のある包みが。
思わず凝視するクリストフをどう思ったのか、グウェインはニッコリと笑みを浮かべた。
「こちらは先ほどお嬢様がお持ちくださったのです。『いつもありがとうございます』の、感謝のお気持ちだそうで」
「へぇ」
特に何も感じていませんけど? といった風を装ったクリストフの顔を見たグウェインがハッと手を口に当てて「聞かれてもいないことをお答えして、失礼いたしました」と忍び笑いを漏らす。
これにも内心でムッとしたものの、グウェインに対してはハイジほどに苛立ちを覚えなかった。日ごろの行いの差であろう。
「では、お姉様とお茶の約束がありますので、失礼します」
「そうですか。では、良い時間をお過ごし下さい」
見送ろうとするグウェインを手で制し、クリストフは再び廊下を早足で歩き出す。
(お父様にも、渡してたんだ)
そして父であるシラーにも渡されていた黒い包みを反芻して肩を落とす。
どうやら使用人に対してのみ配っているわけではないらしい。
そもそも、なぜチョコレートを配るのかと、クリストフはいくつかの想像を巡らせる。
脳内でシャルロッテが『美味しいチョコレートを見つけたから、みんなにも食べて欲しくって!』と朗らかに笑う。言いそうだ。言いそうなのだが、しかし、ならばどうしてクリストフにその恩恵が来ないのだろうか。
まさかとは思うが、クリストフに言えないような理由だろうか。
これまた脳内のシャルロッテが『クリスに内緒で街に行ったら、美味しいチョコを見つけたの』と、もじもじしながら言う。ありえそうだが、いや、しかし。これはありえない。クリストフの目をかいくぐってシャルロッテが外出することは不可能だ。
「では、どこでチョコレートを……?」
入手経路として考えられるのは二つ。
一つは公爵家のパティシエに作らせる方法だ。しかし、先ほどハイジが手にしていたのはきちんとラッピングがされたものだった。となると既製品の可能性の方が高いのではないだろうか。
となると、やはり家にやってくる外商に頼む方法が考えられる。
「でも、チョコレートは頼んでなかった」
直近の外商の訪問時はクリストフも同席していたのだが、シャルロッテは何を頼むわけでもなく、クリストフが勧めてやっとリボンやレースといった装飾を数点購入するのみであった。まさか、こっそりと頼んでいたのだろうか。クリストフには渡したくないから、こっそりと……?
そんなことを考え始めてしまえば、モヤモヤとよくわからない感情が胸に広がって、きっちり締めているシャツの喉元を思わず掻きむしる。
(お姉様に限ってそんなことはない。ない、はず……)
グッと眉根を寄せたクリストフは、やっとたどり着いたシャルロッテの部屋のドアの前で深呼吸をした。脳内で様々な想像が駆け巡る。
(もし、もしも、この後もチョコレートを貰えなかったら? いや、でも僕から「僕のチョコレートは?」と言うのは……あまりにも、なんだろう、ちょっと惨めな……)
公爵家の嫡男として生まれ、天才ともてはやされることは数多あれど優越を感じたことはなかった。なぜなら生まれついて人より上であるという自覚は深く、上であることが当然だったからである。
クリストフは初めて覚えた“惨め”という感情に困惑していた。
ためらいながらドアをノックして、一拍置いてから入室の許可を取る。
「クリストフです、失礼します」
「クリス! ちょうどよかったわ!」
そんな荒れ模様のクリストフの内心などいざしらず、シャルロッテは笑顔で出迎えてくれる。立ち上がる彼女の前にはティーセットが。しかし、いつも並んでいるはずの菓子がない。
「……お姉さま、今日はお茶のみなのですね」
「いえ! 今日はね、日ごろの感謝の気持ちを込めて、皆にチョコレートを配っているのよ」
ふふふ、と含み笑いをするシャルロッテの手は背後に回っており、大きな紅い布で包まれた何かがチラチラと見えている。見えていることに気が付いていない彼女は、「じゃーん!」という効果音を付けてそれをクリストフの眼前に差し出した。
「クリス、いつもありがとう!」
シラーやグウェインやハイジとは違う、紅い包み。それを受け取って開けば、茶色いチョコレートがつるりと光沢を放ちながら鎮座している。
「……あの。お父様たちに渡しているものとは、違うもの、なのでしょうか」
「あっ、他のを見たのね! 他の人たちのは全部同じでね、クリスのだけ特別なの!」
ふにゃっとシャルロッテが笑ってそんなことを言うものだから、渦巻いていた惨めさやモヤモヤはどこかへと吹っ飛び、クリストフの胸にはじわりじわりと喜びが滲み広がる。
「ぼくだけ、とくべつ」
「そう! やっぱり、一番クリスにありがとうって思ってるから。ハッピーバレ……じゃないわ、ハッピーチョコレートデーよ!」
クリストフは、なんだかもう全部どうでもいいやと思った。よくわからないが甘いチョコレートは最高に美味しく、クリストフに染みたのだった。
このシャルロッテの感謝の意を表す謎のチョコレート配りは、そのうちに毎年恒例の行事として公爵家に定着する。やがてレンゲフェルト公爵領全体に広まり、アンネリアのマルカス侯爵領、最終的には甘い物に目がないウルリヒによって王都全体に広がることになるのだが、それはまた別のお話。
なんてね!
遅刻したチョコレートをお召し上がりください!遅れました!!!
また、くろふねpixivさんでシラーとエマの若かりし頃の話が【悪役令嬢は溺愛エンドを回避できません!アンソロジー】にてコミカライズされており、現在無料で読めますので興味がある方はアクセスをどうぞ!




