仔馬ちゃん物語5
「うっ、ぐすっ、う、う、シャルロッテ様のばかぁ……!」
何も言わずにメイドを呼んだウルリヒから、今日何枚目になるか分からないハンカチがそっと差し出されるその先は、侯爵令嬢アンネリア。常に麗しく整えられているはずの肌はボロボロ、目と鼻は真っ赤、声も詰まって掠れて酷い有様で泣いている。
「どうしてっ、どう、して…わ、私ってそんなに頼りありません…?!これでもっ、シャルロッテ様に、た、頼って欲しくて…ちゃんと一人で苦しまないでって言ってたのに…!だっ、だからっ、ちゃんと準備だってぇ、しててぇ…うう」
シャルロッテが国を出てから、もう一週間が経つ。
パーティーでの断罪劇からの、唐突なシャルロッテの出奔。知らされた時にも眩暈がした。
だってその数日前に、アンネリアはシャルロッテに「国外留学でもしようかと思ってますわ」なんて言ってしまったのだ。そしてシャルロッテがまさか国外へと家出をしたものだから、自分のせいだと己を責めるのも当然といえよう。
エマの手引きであったことなどのおおよその話はその後聞いたのだが、それでもあんな箱入り娘が一人で女学院の寮生として暮らすなど、それはそれで心配でたまらない。
そうした心労が重なり、アンネリアは本日、人生で初めて授業中に倒れるという“か弱い貴族令嬢”のような経験をした。
心配した周囲に連れ出され学園の医務室で休ませてもらっていると、いつの間にやらウルリヒがやってきて「帰るぞ」と一言。けだるい体をそっとエスコートされて馬車に乗れば、何故だかウルリヒも一緒にマルカス侯爵邸へと付き添ってくれて。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんわ…」
「気にするな。しゃるの、せいだろ」
揺れる馬車の中で過ごす短くない道中で、二人が話すことになるのは当然その話題。アンネリアはぽつりぽつりと話し出し、しばらくすると涙を流してすっかりとウルリヒに胸の内を暴露していた。彼が中々聞き上手だったせいだ。
「着いたぞ〜」
「だって、私だって、一緒に行ったのにぃぃぃ!!」
「あーもう、鼻水でてるぞ」
アンネリアのぐちゃぐちゃの感情は屋敷についても収まらず、ハンカチで顔を隠しての下車となった。部屋までエスコートしてくれたウルリヒは帰るに帰れない。なぜならアンネリアの涙は止まることを知らないから。
「わ、私のことなんてっ、シャルロッテ様は、ど、どうでも…どうでもよかったのですわー!!」
ずっ、ずっ、と鼻をすする音が響く。
あふれ出る涙をハンカチに押し付けるアンネリアは、もはやウルリヒに話しかけてはいない。あふれ出る涙と嗚咽と恨み言を、かれこれ小一時間は聞くに徹していたウルリヒ。「そんなことはない」と、ポツリと言葉を落とした。
「しゃる、アンネリアには話してて…それで、頼ってって言ったんだろ?」
「そうですわ。頼って頂けませんでしたけれど!」
「それでも…養子のしゃるが、義理の母親を頼れたのはアンネリアのおかげだと思うぞ」
「…っ、そんな、こと…!」
「…しゃるに『人に頼る』って発想を与えたの、たぶんアンネリアだろ」
ウルリヒの言葉に、アンネリアも思う所があった。
あの二人語り合った日。
シャルロッテは何も知らず、まるで幼児のような悲しげな顔をしていた。自分の気持ちさえ『わからない…』と困惑する彼女が、国を飛び出すほどに求めるものを見つけられたのだとしたら。
それはきっと、本当は喜ぶべきことで。
「友達の言うことだから響いたんだ」
「そう、でしょうか」
シャルロッテによくにた顔で、ウルリヒが丸ごとアンネリアを肯定してくれることに縋りたくなる。
「現に私は何も言われていなかったしな。しゃるがくりすとふから離れたがっていることも知らなかった」
「ウルリヒ様は、その…シャルロッテ様的には弟みたいな感じで…」
「弟はやめてくれ、くりすとふに嫉妬で殺される…」
べぇ、と舌を少し出してげんなりした顔を作るウルリヒに、アンネリアは思わず笑みをこぼした。それを眩しいものでも見るように目を細め、彼は立ち上がってアンネリアへとそっと手を差し出す。
「ちょっと外でも歩こう〜」
「え、ええ…」
丁度涙も引いたところだ。アンネリアは言われるがままに立ち上がって、手に手を重ねた。なぜか勝手知ったる様子で歩き出すウルリヒは的確に屋敷から馬舎の方へと向かい、アンネリアは嗅ぎなれた草と土と馬の匂いに肩の力を抜く。
「いい子にしてるか〜?」
どうやら今回乗って来た馬車はウルリヒの物だったらしく、来客用のスペースに繋がれた白馬達は彼を見て嬉しそうに首を振っている。アンネリアがその美しい毛並みに「まぁ」と感嘆の息をつけば、ウルリヒが馬を紹介してくれて。そっと撫でれば素晴らしき滑らかさ、流石は王宮の馬といえよう。素晴らしい手触りにアンネリアの口角がにまぁっと上がった。
分かりやすく機嫌の良くなったアンネリアを見て、ウルリヒが思わずといった様子で口走る。
「泣いてるアンネリアも可愛かったけど、笑ってる方が好きだな」
「う、ぇ?」
「…っあ!ちょ、ちょっと乗ってみるか?!」
ウルリヒは馬丁を呼びつけ、鞍を付けさせて台を用意して「乗るぞ〜!」とアンネリアを馬上へと誘う。制服姿のアンネリアは少しためらったが、ウルリヒが後ろを向いて「絶対見ない!」と言うので、誘惑に逆らえずに馬へと上った。ウルリヒもすぐに乗って来て、バサリと彼のジャケットが膝にかけられる。
「一応な〜」
「あ、ありがとうございます」
幼き頃に父親にしてもらった以来のタンデムにアンネリアの心臓は高鳴った。庭と呼ぶには広大すぎる、マルカス侯爵自慢の林へと馬はゆっくりと進む。自然の香りがアンネリアを包み込んだ。
少し進めば庭師が趣味で整えている白い花の群生地があって。白い花が光を弾いて、まるで光っているようにサワサワと風に揺れる。甘い匂いが鼻をかすめて、どうしてだろう。また思い出すのはシャルロッテの後ろ姿だった。
「っ…」
アンネリアはじわりと涙の滲んだ目をこすった。
ここ一週間はずっとこうだ。シャルロッテを思い出しては泣き、自分のふがいなさにも泣いて。あの日ああ言えば良かったのではないかとか、もっとこうすればよかったとか、後悔ばかりが胸を詰める。
「シャルロッテ様には、私しか居ないと思ってましたの」
ぽつり、こぼれるのは本音。
「だから私なんて、お友達として失格ですの。唯一の友達だから当然頼ってもらえる、私だけが彼女をわかってるなんて思ってました…淑女としてあるまじき傲慢さです…」
「しゃるの女友達はアンネリアだけであってるぞ〜」
「……シャルロッテ様がお義母様を頼れたこと、本当は喜ばなくてはならないって分かってます。でも、ただひたすらに、つらくて…私、自分のことばっかりなのですわ」
「私だって寂しい」
背中に感じるウルリヒの苦笑いの声、温かい体温に、アンネリアは耐えきれなくなった。
「こ、こんな、シャルロッテ様の一歩を喜べない私だから…う、う、だからっ、シャルロッテ様に置いていかれたんですぅ…!浅ましい心の持ち主なのですわ…!」
またボロボロと零れだす涙が頬を伝うのを、彼は優しくぬぐってくれる。
「アンネリアが隣国に家出しなくてよかったよ。寂しくて死ぬところだった」
「こんな女…居ても居なくても変わりありません」
「そんなことはない」
卑屈になったアンネリアの暗い声に、ウルリヒはひらりと馬を降りて「こっちに来て」と言った。
馬というのは結構高さがあるので本来は台座などを使用して乗り降りするのだが、ウルリヒは事も無げに「ほらほら」と催促してくる。
「う、後ろを向いてくださいませっ」
「はいはい~」
ウルリヒの目がないことを確認して、アンネリアは魅惑的な白馬の首筋に一度抱きついて大きく息を吸った。素晴らしい毛並みに頬擦りしてから、ジャケットを畳んで置く。ぴょん、と貴族令嬢らしからぬ身軽さで馬から降りたアンネリアは、服を軽く整えた。
「いいですわ!」
振り返って、いつも通りに顎をツンと上げて腕を組んだアンネリアの姿を見たウルリヒは、ぶはっと吹きだした。
物音から、抱きついたり馬を吸っていたのが丸わかりだったのだ。目尻に涙がたまるほどに笑うウルリヒに、むっとしながらもその場でちゃんと待つアンネリア。
「やっぱ、アンネリアはいいなぁ。いつでも馬が大好きで、素直で…可愛い」
「なんですの、いきなり!」
「アンネリアって素直だよなってこと〜」
「なんだか馬鹿にしてません?」
「してないしてない」
二回も言うと信憑性が薄れるのだが、ウルリヒはご機嫌に鼻歌を歌って「キレイだな~」とアンネリアの手を掴んで歩き出してしまった。文句を言う気も削がれた彼女が大人しく後をついて行くと、なんと白馬も合わせてゆっくりとついて来る。
「ま、まぁ!!」
彼女は後ろを振り返って目をキラキラとさせ、ウルリヒのことなど眼中になくなってしまう。声に振り返ったウルリヒは苦笑いだ。茶色い髪の毛を揺らしながらも後ろ向きで器用に歩くアンネリアをサポートしながら、ゆっくりと花畑の横を散策する。
ウルリヒが立ち止まる。すると当然馬も止まり、馬を見つめるアンネリアもピタリと止まった。
「いい庭だなぁ」
「馬のために広く作っております。一般的な貴族の庭とは異なりますが、我が家の自慢ですわ!」
「いいな…アンネリアは、この家にずっといたい?」
「うーん、そうですわねぇ。弟が家を継ぎますので、私もいつかは出なくてはなりません」
「じゃあアンネリアの結婚の条件って、う、馬を飼える男?」
「いえ。運命の王子様ですわ」
ごくり、ウルリヒのつばを呑む音が響いた。
握られた手が二度三度と弱かったり強かったりする力で揉まれて、アンネリアは怪訝そうな顔を彼へと向ける。
「好き、って言ったら…困るか?」
思わず身を引いて下がるアンネリアの手をぎゅぅっと、まるで逃がさないとでも言うように強く握るウルリヒ。真剣な紫色の瞳がアンネリアを真正面から見つめて来て、彼女は口をハクハクとさせてから、染まる頬をごまかすようにそっぽを向く。
「わ、私も好きですわ。と、友達ですし!」
「友達じゃない!」
「ひ、ひどい!今まであんなに仲良くしてて、違うんですの?」
「違わないけど!!つまり、好きって…こーゆーことしたいんだっ!」
腕に力が加わって、アンネリアの体はウルリヒに引き寄せられた。ぐらりと傾く体に合わせて揺れた髪が彼の腕に挟まれているが、おかまいなしにぎゅうぎゅうと抱きしめられる。
「ちょっ、ちょっと!」
「運命じゃなくて、ホンモノの王子じゃダメか?!馬だって飼えるし!実家にもたまに帰っていい!あと、アンネリアがやりたいことは応援するし…!」
途中で言葉を切ったウルリヒは、そっとアンネリアの体を離して一歩下がった。白馬が彼の後ろに回ってまるで励ますようにその背を鼻で叩く。ちらっと馬とアイコンタクトを取る横顔が美しくて、アンネリアは突っ立ったまま白馬とウルリヒが花畑に佇む姿を眺めていた。
「アンネリア・マルカス侯爵令嬢!」
ウルリヒはアンネリアの右手を取ると、その膝をつく。神々しく光の中に輝く銀髪と白馬の毛並み、白い花。そっと唇を寄せるウルリヒの長い睫毛が伏せられるのを、まるでスローモーションのようにアンネリアは観察していた。不思議な感覚だった。
現実だと分かっているのに、まるでおとぎ話のようなその光景に、頭がクラクラとする。
「好きだ。私と結婚してほしい」
「…………は、い」
アンネリアは熱に浮かされたように、上ずった声で思わず了承をしていた。
「ほ、ほんとかっ?!」
立ち上がったウルリヒは再びぎゅうっと手を握ると「ほんとか?!」と繰り返す。ぼぅっとしたアンネリアが緩慢な動作で頷けば「やったぁ!!!」と叫んで、嬉しそうにアンネリアの頬に唇を寄せ、ちゅっっと軽いキスをした。
「へへ、これで、婚約な~!」
陶磁器のような頬を染めたウルリヒの笑顔に、ぽぅっとなったままアンネリアは頷くが、引っかかっていた思いを絞り出すように問いかけた。
「わ、私で、いいんですの…?」
「アンネリアじゃなきゃダメだぞ!!ずっと大好きだ!」
へへへ、と笑うウルリヒの笑顔。美しい顔に浮かぶ無邪気なその喜びは、見ているこっちも嬉しくなるような表情。
アンネリアはとうとう白旗を上げた。
染まる頬や滲む涙を隠さずに、まっすぐと彼を見つめる。
「私も、好き。です」
「や、や、やった〜!」
喜び方はまだまだ子どもっぽいウルリヒだが、それもまた良し。これが運命かと、アンネリアは幸せいっぱいの気持ちで微笑んだ。




