二人だけの世界(後)
「失礼します。報告書の提出から戻りました」
意外に早い帰着だった。椅子に座ったまま振り返る。
「ご苦労さま。ありがとう」
感情を捨て去った、研究者にふさわしい表情が私の前にある。そんな能面にすら魅力を感じ、欲求を抑えるのに必死な私が滑稽で堪らない。彼女のことを考え過ぎていた影響だろうか。
「お疲れですか? 顔色が良くないようですが」
言葉は温かいが、声色は薄く冷たい。そんなに酷い表情をしていたのだろうか。長期間の観察を終えて疲れが出ているのは事実だが。
「そうかもしれない。ちょっと外の空気を吸ってくる」
立ち上がって伸びをすると、体の節々がいい音で鳴った。適当な自己流の全身ストレッチをしながら、研究室の外へと向かう。特にどこへ行こうという目的もなかったが、足は勝手に中庭へと向かっていた。
別に憩いの場という訳でもない。それなりの広さといくつかのベンチ、そして景観を意識した草花があるだけの場所だ。私のような変人が気紛れで訪れるような一種の穴場という扱いがぴったりだろう。
中庭に出て、横長のベンチに一人で座る。周囲に誰もいないのをいいことに、ベンチに寝転がった。
正面に広がる四割ほどが雲に占拠された空。それは急ぎ足で流れ、太陽が頻繁に見え隠れする。私には喫煙習慣はないが、今は無性に口寂しくなった。
こうしていると、私の思い描く筋書きが脳内で具現化されていく。
おそらく近い将来、このシステムは完成するだろう。
だが、一つだけ大きな問題が残る。大量の人間データを抱えたサーバーをどうやって維持するかだ。何かしらの永久機関を作るという手段もあるが、もっと簡単な解決法がある。
こちら側にシステムを維持する人間を残しておけばいいのだ。その方が、機械やプログラムでは対処し切れない突発的な問題が起きたとしても、臨機応変に立ち回ることができる。
たったそれだけの犠牲で人類の望みが叶うのなら、お偉方は喜んで楽な選択肢を選ぶだろう。システムを維持することがどんなに素晴らしいかという建前だけの美談を並べ、勇気ある立候補者を探すに違いない。
そうしたら、私はそれに挙手しよう。開発チームの一員である私ならば、寄せ集めの素人より役立つはずだ。私一人が残るだけでこの世界から大量の人が向こう側へ旅立てるのだから、反対意見など考えられない。
そして私は共に残ってくれるように、ある人物を指名する。
もちろん彼女だ。長年私との名コンビとして名を馳せてきた彼女なら、名も知らぬ素人を百億人集めるよりも効率が良い。彼女が絶対に了承してくれるとは言えないかもしれないが、病的なまでの仕事熱心さを見せることから、期待くらいはしてもいいのではないかと思う。
──もし、すべてが私の思い通りに進んだなら。
全世界のシステムを、この研究所で制御できるようにネットワークを張り、私と彼女以外の全人類は向こう側へと旅立つ。しばらくは真面目に維持を続けよう。移住した皆が変化のない生活に毒されて感情が麻痺する頃が狙い目か。
おそらく一年もしないうちに、その時が来るだろう。
そうしたら、私は遠慮なくシステムを放棄する。
向こう側へ旅立った人々のことなど知ったことではない。世界自体に自己防衛機能は備わっているし、仮に問題が起こったとしても、彼らは自分が望んだ理想に溶けていくだけだろう。誰も損をしない結末へ辿り着くだけだ。
彼女はそんな私をどう思うのだろう。気が狂ったのだと見捨てるだろうか。いつもの極限まで研ぎ澄まされた冷たさで無関心を貫くだろうか。一緒になってシステムを破壊するだろうか。
それとも──私を女性として意識してくれるだろうか。
ともかく、こちら側の世界には私と彼女しかいなくなる。第三者の目で観察し続けてきた未央と伶奈。その二人と同じ世界を生きられる。二人の元となった私と彼女。ずっと望んできた二人だけの世界。他者の目を完全に排除した理想の世界──。
もちろん、これは私のくだらない妄想でしかない。だが、大きく外してはいないと自負している。システムの完成が近いのは、研究チームの中では周知の事実だ。
目的地は遠くで小さく光っており、そこまでの道も見えている。ただその道のりが長く険しいだけだ。
「ここにいたんですか」
その声が私を現実へと引き戻した。いたずらっ子を見付けたような、柔らかな呆れと楽しさを含んだ声色。見れば彼女がこちらに向かって歩いている。
「ああ、ここは私のお気に入りだからね」
「いつもここで空を見上げてますよね」
彼女が私の隣に腰掛けた。上空へと投げ出された視線は仕事の時とは違い、安らぎに満ちたものだった。
最後に彼女のこんな表情を見たのは何か月前だったか。感情を抑え込むため、観察に没頭し続けた日々。報告書の完成により、今だけはこうして仕事を忘れられる。
けれど、それもほんのわずかな間だけ。システムの完成、そして彼女と共に過ごせる世界のため、私は再び機械のような作業を始めなければならない。
だからこそ、僅かな猶予を楽しまなければ損というものだろう。
「これ、よかったら飲んでください」
差し出されたのは、温かい甘酒の缶だった。秋の午後、気温が下がり始める頃にはありがたい飲み物だ。
「ありがとう。いただくよ」
「甘酒って、おいしいですよね」
彼女も自分の分を買っていたらしい。その手に飲みかけの缶を持っていた。
「珍しい嗜好だと思うけど」
「そうですか? 一年中いつでも飲みたいなって思いますよ」
彼女はまた甘酒に口を付けて、言葉を続ける。
「ほら、昔は年明けに初詣ってあったじゃないですか。あそこで貰える甘酒が楽しみだったんです。両親が貰った分まであたしが飲んだりして」
今では初詣という行事すら過去の遺物だ。教科書に載っている戦国時代の出来事と何も変わらない。
慣習を引きずる老人と物好きな考古学者くらいが、思い付いたかのように初詣へ行く程度までに規模が小さくなっている。
「……もう少しで、あの実験も実を結ぶんですよね」
「長く見積もっても五年以内には完成するだろう」
「五年、か」
彼女はもう甘酒を飲み終えていた。空になった缶を手の中で弄んでいる。
「完成したら、君もあっちの世界へ行くのかい?」
思わず口を突いて出た質問。言ってから事の重大性に気付いた。
「うーん……わからないです」
焦る私とは違い、彼女は真剣に考えていた。
「新しい世界を作るっていう実験そのものは好きなんですが、そこに自分が行くかどうかってことには興味が持てないんです。そこまでは望んでいないというか……」
「そうか。君は昔から変わってないね」
「はい。そうじゃなかったら先輩と一緒にいませんよ」
「それはどういう意味?」
「変な意味じゃありません。先輩といると退屈しませんから。毎日色んな発見ができて、あたし楽しいんですよ?」
「はは、そりゃ光栄だ」
発見、か。やはり彼女は根っからの研究者体質らしい。
彼女と出会ったのは高校時代だった。
当時から理系学問に興味を持っていた私は、熱心に化学の教科書を読む彼女のことが以前から気になっていたのだ。この思い出は未央と伶奈の世界にも引き継がれていた。
当時は同じ趣味を持った友達がほしいというような、至って平凡な行動原理しか持っていなかった。
実際、私と彼女は話がよく弾み、年頃の女子には似合わない化学式や、重力加速度と摩擦についての議論で盛り上がったものだ。
同じ大学に進んだ私たちは当然の流れとばかりにコンビを組み、ゼミの研究室に入り浸って観察や実験を何度もこなしてきた。長年行動を共にした二人だからこそ、個別で行うよりも作業が捗った。
だから、ここに雇われた私を追って、一度は進路を別にした彼女が研究員として就職したのは驚いた。
同年齢なのだから先輩呼ばわりや敬語は止めてくれと言ったこともあるが、結果はご覧の通りだ。職務を貫く姿勢は社会人らしくもあるが、多少の寂しさもある。
それでも、仕事以外では以前と同じように人懐っこく砕けた口調で接してくれるので、それほど不満というわけではない。
「あ、そうだ」
不意に彼女が気の抜けた声を出した。遠くを眺めていた目を戻し、横へと向き直る。
「どうした?」
「いえ、報告書も出したことですし、しばらくは時間に余裕ができるのかなと思いまして」
「そうだな。とりあえず、ここで寝泊まりすることはなくなると思う」
「いつぶりでしょうか……部屋に帰るのって」
「覚えてないな。元々こちらにいる時間の方が長かったからね」
「もう、先輩ったらしっかりしてくださいよ。冷蔵庫の中身とか心配じゃないんですか?」
「日持ちしないのはこちらに持って来てあるから大丈夫。残っているのは君のチョコレートと栄養ドリンクくらいだよ」
「そっか。じゃあ、今日は何か買って帰らないとですね。久々に料理作りましょうよ」
「私は雑用専門だけどね」
「それでもいいんです。あたしが先輩と一緒に作りたいだけですから」
そう言って彼女は満面の笑みを向けてくれた。
私は照れ隠しに溜息をついて視線を逸らす。ふと思い出して手元の甘酒を飲んでみた。喉越しは生ぬるい。
私は彼女と同じ部屋で生活している。私が先に一人で住んでいたところに彼女が転がり込んできたという簡単な理由だ。共同生活自体は昔からしていたし、研究室で共に夜を明かしたことも一度や二度ではない。
だから、彼女にとって特別な感情などそこには存在しなかったのだろう。ただその方が色々と都合が良かったから。一緒にいるのが当たり前。それだけのことだから深読みなどするべきではない。
ただし「その当時は」という言葉を付加する必要があるのだが。
「えへへ、先輩とご飯かー。何作ろうかな」
「なんだっていいよ。好きなように作ればいい」
「先輩は何が食べたいですか?」
「食べられるものならなんでも」
「そういうのが一番困るんですよ? ちゃんと考えてください」
私だって困る。彼女の作る物なら、例えカップ麺でも嬉しい。だからなんでもいいと答えたのに、これ以上どう言えばいいのだろう。
長考する私に、彼女は溜息をついた。
首を傾げて、しょうがないなとばかりに微笑んでいる。すべてを理解しているような表情で、彼女はこう言った。
「未央が食べたいのは、なあに?」
ああ、彼女のこんなに親しげな言葉を最後に聞いたのはどれくらい前だろう。
彼女と出会ってから今までの思い出が、一瞬の内に脳裏を駆け巡る。共に長い時間を過ごしてきた中で、いつの間にか彼女の存在がこんなにも大きくなっていた。
具体的な理由など存在しない。気付いた時には好きになっていた。すべての結果には原因があると信じて疑わなかった私を裏切ったのは、他ならぬ私自身の心だった。
何故か溢れそうになる涙を堪え、私は彼女なしでは生きられないと再確認する。
「じゃあ……野菜炒め」
雰囲気をぶち壊すような提案で申し訳ないが、正直に言うと、他に料理名が思い浮かばなかったのだ。それに、初めて食べた彼女の手料理は野菜炒めだった。気取った調味料をいくつも使ったあの奇抜な味は忘れられるようなものではなかった。
一区切りついた今、それをまた食べたいと思うのは自然なことだろう。
「いいよ。愛情いっぱいのを作ってあげるね」
嬉しそうに答える彼女。きっと、頬が落ちるという表現がこのためにあるかのような料理を仕上げてくれるに違いない。
「──さて、そろそろ休憩も終わりだ。戻らないと」
「今日は早く帰れるよね?」
彼女の口調は戻っていない。それが嬉しくもあり、今後の活力となる。
「ああ、残っているのは簡単な処理だけだから、報告まで含めて一時間もあれば終わるはずだ」
「じゃあ、一緒に帰れるね」
「何もなければだけど」
「早く終わるように、あたしも作業手伝うよ」
「それなら百人力だ」
薄暗くなった空を背に、私たちは並んで研究所へと戻った。揃って投げた空き缶がゴミ箱に入り、澄んだ音を響かせる。
未央と伶奈が過ごす、あの世界。それらは二人の意思によって作られ、維持されている。これ自体は、最初からわかっている確かなことだ。
その二人、つまりは未央と伶奈。そのすべての基礎となっているのが私と彼女である。性格や思考、果ては深層心理まで。
つまり、共に同じ願いをもっているからこそ、あのような世界が構築されたというわけだ。
互いを求め合い、他者を廃絶した停滞さえも根源はそこにある。多少の意図的な操作をしたとはいえ、私だけの一方通行な恋慕だけでは、もっと違う世界になっていたはずなのだ。
そういった確信があったからこそ、私はあの計画を考えた。
彼女が私と同じ想いを持っているという裏付けがあって、そこまでの道筋を建てたのだ。同性間の恋愛という、ただでさえ茨の道となる未来。指針もなしに無謀な算段は立てない。
「やっぱり久々だから色々作りたいし……うーん、そしたら帰りに買い物しないとダメかなあ」
横を歩く彼女の様子を窺うと、上機嫌の思案顔で今晩の献立を考えている。私に喜んでほしいという素直な願いからくるものだろうか。
それとも、奥深くに秘めた想いが成せる業だろうか。
私と彼女は、共に同じ想いを抱いている。だから、さほど不安ではない。きっと彼女は私と共にあることを望んでくれるはずだ。世界の根本については、もちろん彼女も理解している。
つまり、彼女も私の秘めた想いに勘付いている可能性は大いにある。
いつか彼女から打ち明けてくれる日がくるだろうか。それとも私から──どちらにしても結末は変わらない。
世界が二人だけの物となった暁には、私たちが名実共に未央と伶奈になるのだから。
さて。
伶奈と過ごす時間のために、もう一頑張りしないとな。




