二人だけの世界(前)
そこで私はキーボードを叩く作業から解放された。
それはつまり、報告書の完成を意味する。長かったプロジェクトも、ようやく一段落だ。
「お疲れ様です。印刷が終わったら、記録映像と一緒に提出してきますね」
「ああ、頼むよ」
後のことは助手に任せ、私は瞼を閉じて蓄積した眼精疲労を落ち着かせる。目薬に頼るより、自力で治癒させる方が慣れている分だけ楽だ。
観察と記録の日々をどれだけ重ねてきたのだろう。ほとんど研究所の外へは出ないから、季節の移り変わりは電子時計が知らせる客観的な情報として知る他ない。
思い返してみる。先ほど報告書に日付を記す時に時刻表示を見たはずだ。現在時刻は午後二時四十一分。巡り続けた季節は秋になっており、今は十一月だ。
「では、行ってきます」
「よろしく」
助手が部屋を去り、私は一人取り残された。それが引き金となったのか、暗闇の視界に取り留めないことを浮かばせてしまう。
私が携わっている新世界構想計画。いつの世も求められる理想郷が、ようやく現実となる日が近付いている。
その世界は複数パターン存在し、それぞれに人物が生活している。生活する人間が求める理想像によって、それぞれに合った世界が提供される。未央と伶奈のような、二人だけの世界というのが一例だ。
そして、すべての世界には絶対の特性がある。それは、その世界の人物が必要だと認識しない限り、他者を見ることも感じることもできないということである。
同じ世界、同じ時代を設定して生活させていれば、いくつもの交流があって当然であろう。しかし、あの二人に他者との接触は一切なかった。
実際に未央と伶奈も数え切れないほどの人物とすれ違ってきた。あの世界だけでも、数百に相当する実験と観察が行われており、今も継続している案件は少なくない。
それに気付けるのは私たち実験者のみである。不必要を徹底的に排除した理想世界。すべての人々が望む、そんな世界を作り上げるために私たちは日々動いている。
この世界は、いわゆる「クローズドベータ公開」といった状態だ。表沙汰にできないルートで希望者を募り、実際に生活してもらうことでデータを集め、それを元に改良を繰り返し、わずかなミスもない完璧なものに仕上げなければならない。
もちろん、それだけでは検体の絶対数が不足する。そこで考え出されたのが、関係者や研究者の人格をコピーし、そこから仮想人物データを作り出して生活させるということだった。元々大量の人員を投入していただけあって、軽く見積もっても効率は数倍に跳ね上がったと思われる。
それにより多くの事案が試行可能になった。生活対象の年齢、性別、人数など。多人数の場合はその関係、つまり友人なのか恋人なのか夫婦なのか。その関係が始まってどれくらいの期間が過ぎているのか。あらゆる可能性について検証されている。
平等という正義の元、例外を出すことは許されない。一部の指導者が決めたことは、即ち総員の意思となる。その前では有象無象の反対意見など存在できない。やがて来る国民総移住計画。結果を急ぐ者共にしては根回しに尽力した方だろう。
だからこそ、どんな可能性も見逃してはいけない。常人ならば目を逸らしたくなるような、黒く染まった世捨て人の懐にも必要とあれば入り込む。それが存在しているのならば、どんなことでも吟味しなければならない。
そんな中には、同性の恋人同士というケースもある。私が担当している未央と伶奈がその一例だ。そういったアウトローな案件は、研究者とはいえ躊躇するものだ。そして私の第七班には、そういった事案が持ち込まれる。言ってしまえば都合の良い部署なのだ。
未央と伶奈は、私ともう一人、長く私の片腕として働いてくれている助手の人格データから作り出された存在である。数分前に書類の提出に向かってくれた彼女こそがその人物だ。
未央は私を、伶奈は助手を原型として作られた。コピーではあるが、ある程度の改良は加えている。だが、年齢や性格といった細かな点を多少変えた程度の差異だ。外見は私たちと瓜二つである。
未央と伶奈という名前は、私たちの名をそのまま流用した。
他の部署でも実験対象に元の人間と同じ名前を付けるということが慣例化していたためだが、それでも多少の戸惑いはあった。それも時間の経過と共に薄れていくのを実感すると、自分は心の底まで実験者として染まりきってしまったのだなと思う。
内面的な部分は私の欲望が色濃く出たものとなった。未央を重点的に観察していた時に、肉欲的な感情を弾けさせていたのが典型例だろう。それが本心なのだから否定する気もない。
それに、私が思い描く理想郷と合致するように、伶奈のデータを一部書き換えたのも事実。実験のためという建前の理由があったが、実際には完全に自分のために行なったことだ。現実に開放できない色欲を仮想空間で満たしていると言われても仕方ない。
私が女性同士の恋人という案件について実験することが決まった時、私たちの人格を使うようにこちらから提案をした。それはすぐに認められ、助手も利用意図を理解した上でデータを提供してくれた。実験のためだと言えば、研究者なら断るはずがないのは当然のことである。
私は未央や伶奈の視点に立ち、様々な場面を見てきた。時には未央、時には伶奈と視点を変えて。とは言っても頻繁に視点が変わっては提出できるような読み物にならない。だから章立ての形式にすることにより、未央視点と伶奈視点を区別したのである。
当然、その二人はデータ上の存在であるために、私の手元で操作すれば、未央が何を考えているか、伶奈が何を望んでいるか、その胸中が文字通り手に取るようにわかる。意思決定の方向を操作することも造作ない。
だが、それはアンフェアであると考え、そうしなかった。あくまで現在視点を置いている方に感情を注ぎ、相手の反応を窺い、楽しむようにした。
言ってしまえばなりきりだ。自分自身から作られた未央はもちろん、私は伶奈にさえも精神を同化させていた。
未央と伶奈が愛を育み、確かめ合うたびに、私は何度も倒錯的な快感を覚えていた。その姿に私と助手を重ねていたのだ。愛し合う二人の姿は、私にとっての桃源郷。
そう。私は助手のことを愛している。未央の衝動は私の欲望。秘めた恋愛感情はそのままに、未央という人格を作り出した。その結果が、今まで見てきた伶奈との蜜月である。
伶奈の感情を、実験に都合が良いように修正できたのも大きかった。未央、つまり私に対して伶奈──助手がこう接してくれればいいという個人的な希望を含ませて運用したことは否定しない。多少の逸脱も、実験のためという大義名分でどうとでもなる。
私が所属しているのは第七班と呼ばれる部署であるが、実際の構成員は二人しかいない。班長である私と、助手である彼女だけだ。その方が効率良く研究を進められるという理由を付けて意見した結果である。
そんな異例の提案に、当初は反対意見も多かった。しかし、私と彼女が以前携わった実験の過程と結果を論文として提出したところ、あっさりと掌を返してきた。元々私がここでそれなりの立場を築いていたという背景もあったのだろう。
勝算があるからこそ、多少の無理を通すことにしたのだ。
私と彼女、狭い研究室に二人きり。まるで学生時代に戻ったかのような錯覚が常についてくる。そんな状況のため、彼女と一緒に二人の様子を見ることがほとんどだった。もちろん、情事を目の当たりにしたことも一度や二度ではない。
「女同士でも、こんなことできちゃうんですね」
そう言って淡々と呟いて記録する彼女は、他の何者をも圧倒する絶対的な魅力で輝いていた。照れることも目を逸らすこともなく、ただ事務的に観察し続ける彼女。視線の先には、一糸纏わぬ姿で乱れる未央と伶奈、瓜二つの女性たちがいる。
私も表面上は冷静を装っているが、体の奥から溢れ出る熱が下腹部を刺激していた。
いつかは未央と伶奈のようになれたなら。この二人を壊すようなことがあってはならない。そんな思いのために、この二人には「作られた存在ではない」という不可侵の思考を刻みつけ、自身を否定して崩壊することのないように細工した。仮に世界を否定したとしても、自分と相手のことだけは認めて信じられるように。
基本は中立的観察を絶対の規則としているこの実験において、私の行為は明らかに違反している。だが、そんなものは口車と権力でどうとでもなる。それが可能な立場だからこそ、私はそんな細工をしたのだ。
報告書を読んだ連中から何か言われるかもしれないが、所詮は現場を知らぬ者共の集まりだ。それが必要だということを、適当な理論を交えてそれらしく伝えれば簡単に言い包められる。
そもそも、報告書は他にも多数提出されている。その中から必要な文章と画像データを切り張りし、来たるべき未来でこの理想郷を享受できる選ばれし人々へ、最良の宣伝ができるような資料を作っているのだ。
人々、特に日本人の考えを操ることは容易い。過去何度もそれは証明されており、最新の実験結果もそれが可能だと示している。
その方法はなんでも良い。不安を煽るような噂を流す。それだけだ。内容すらも適当で構わない。何年に人類が滅ぶとか突拍子もないことでも、今年中に鳥類が全滅するとか直接人間には関係ないことでも良い。もっともらしい根拠と論理を並べれば大抵の人は信じる。
そこまで行かなくとも、言葉が頭の片隅に引っかかるだけの人はさらに多いだろう。そんな人には、時間を置いて繰り返し同じ情報を与えれば良い。何度も刷り込まれた迷信は膨らみ続け、やがて不安が抑えきれなくなった頃、観念して信じるようになる。
日本人ならではの右に倣えの精神。そこを利用した冴えたやり方だ。では他国の人間はどうするのか。答えは簡単。その国のことはその国にやらせる。至極当然の話。
そもそもこのシステムは外国から日本へと持ち込まれた。今も変わらぬ先進諸外国からの押し付けが始まりだった。
しかし、そこは主体性を持たない日本人。システムの良い面だけを過信するようになり、その完成を躍起になって目指し始めた。外国から押しつけられたものを、今度は国民に押し付けようという魂胆だ。
普段は保身に周り、後手の対応しかできないお偉い様たちが、今回は用意周到に未来を見通して計画を打ち出した。可能な限り自然になるように、反乱分子が発生しないように、綿密に練られた未来への道。
なんてくだらない。吐き気すら覚える。
だから、私は反抗の意味を込めて秘かに計画を進めた。計画の中核に触れることのできる立場だからこそできる、最大限の利用と自己満足を。
私には夢がある。それはほんの些細なこと。彼女と一緒に暮らしたい。たったそれだけだ。もう少し欲を出すならば、未央と伶奈のようになりたいと考えている。
彼女は早い段階から、この世界計画に興味を持っていた。開発メンバーの一人ということもあり、志願すれば早いうちに理想郷へと移ることも可能だろう。
完成した暁には移住を望むのだろうか。その時に私が隣にいることが許されるか否か。私を上司としてではなく、一人の女性として見てくれるだろうか。そもそも移住の意思はなく、こちら側で朽ち果てることを望むのか。
どんな結果が待っていようとも、私は彼女の意思を尊重するつもりでいる。そこに私が根回しできる余地などない。それが普通の考えだろう。
だが、先刻も述べたはずだ。勝算なしに計画を企てる私ではない、ということを。




