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認識対象  作者: 虹月映
第二章 伶奈
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不変の世界

「──未央、ありがと」


 伶奈は咳払いをして、掠れた声を振り払う。


「いいよ。伶奈のためになれたなら私も嬉しいから」


 言葉は途切れ、視線は交差する。結ばれた絆が引き寄せ合うように、二人の顔が近付く。白い吐息が立ち上り、瞳を潤ませる。

 重なった二つの唇は、細かな動きを見せながらも離れることなく、長い時間繋がり続けていた。

 時折漏れる不定形の声は、響く間もなく夜の闇に吸い込まれていく。白い息に包まれながら、互いの奥まで求め合う。切ない吐息に水音が混ざるまで、多くの時間は必要なかった。


 名残惜しさを孕みつつも、ようやく離れた時には夜が深まっており、新しい年がすぐそこまで迫っていた。

 しかし、時計の類を持っていない二人にそれを知る術はない。それでも何かを感じ取ったのか、雰囲気を改めて話し始めた。


「さっきも言ったけどさ、やっぱりこの世界は好きになれないよ」


 口火を切った伶奈に、未央も理解を示す。


「そっか。それが伶奈の答えなんだね」

「うん」

「それで、どうするかは決めたの?」


 その問い掛けに対する答えは、既に考えていた。その大きさを理解しているからこそ、いくつかの呼吸を挟んで呼吸を整えてから、伶奈は結論を告げる。


「この世界を、否定する」

「……否定?」

「そう。あたしの考えを世界が読み取っているのなら、マイナスに考えてもその通りになるってことだと思うの」

「つまり、それって……」


 察したような未央の言葉に伶奈は頷く。


「完全に否定したら、この世界は消えちゃうかもしれない」

「伶奈は、この世界を消したいの?」

「──うん。もう誰かの思い通りに動くなんて嫌だから」

「そう……それが伶奈の意思なら、私はそれについていくよ」

「いいの? 世界が消えちゃったら、あたしと未央も消えちゃうんだよ?」

「いいよ。たとえ消えたとしても、私と伶奈はずっと一緒だから」


 伶奈の手が強く握られる。それに背中を押され、空想は決断へと変わった。


「未央、離さないでね──」


 強く抱き合い、伶奈は世界への抵抗を始めた。考え得る限りの否定。過去と現在、そして未来さえも拒絶する。

 世界と未央は関係ない。だから、未央を否定することだけはしたくない。脳細胞を酷使している間、未央のことは考えないようにした。全力を世界の否定へと注ぎ込む。


 すべて消えてなくなってしまえ──。

 そう願い続けたまま、年が明けた。






 その瞬間、世界は歪んだ。

 夜の闇に包まれていた空間は白く反転し、同時に二人の意識も奪い去った。周囲の景色、木々や鉄塔も何もかもが消滅し、完全なる無が地平線の果てまで限りなく広がっていく。


 伶奈が望んだ結末は、いとも容易く訪れた。色も上下も左右も方角も重力も何もかもが消滅した、どんな言葉を使っても形容できない無がそこにある。


 しかし、それも一瞬のこと。

 同程度の容易さをもって、世界の復刻と再構築が進行していく。


 まるで電灯を点けるかのごとく世界は切り替わり、慣れ親しんだ二人の家が現れた。二階の西側にある寝室では、当然のように未央と伶奈が眠っている。

 いつの間に戻ってきたかなどと、二人が疑問に思うことはないだろう。そもそもそこへ至るまでの記憶がないのだから。


 伶奈の望み通りに消え去った世界は、その自衛効果により初期化された。ここにあるのはいつまでも続く安寧の時。緩やかに流れる日々が壊れることはない。

 世界もまた、簡単に壊れるようなものではなかったのだ。住人の意思で崩れるようならば、実用に耐えうるはずもない。


 ジリジリと目覚ましが鳴り響く。既に伶奈は意識を覚醒させているようだが、未央の動向を瞼の奥で窺っている。

 やがて未央が手を伸ばし、けたたましい音を止めた。寝ぼけ眼で伶奈を眺め、その寝顔を堪能している。頬に触れ、髪を撫でるだろうことは見なくても想像できる。そして、伶奈が秘かに行く末を見守っているということも。


 朝の風景は何度も繰り返される。そこから続く穏やかな停滞も永久不変。

 それは絶対不可侵な、世界の掟なのだから。



















          *





 ご覧いただいた通り、世界は絶対的な安全を確立している。通常ならば有り得ない事象を起こしてこうなったのだから、通常の範囲内では問題など考えられないという結論も妥当なものであろう。

 つまり、定められた世界の平穏は何者にも影響されない不可侵を貫いている。それを理想郷と呼んでも、決して過大評価ではない。


 今回の要点は、世界の主役である住人が引き起こした異常という所にある。住人の意思と世界の法則。その二つが衝突した場合に、どのような事態が発生するのか。そして収束していくのか。そのサンプルを採取できたことは貴重と言い表す他ない。


 さて、長らく継続させてきた観察は、以上をもって終了とする。

 未央と伶奈。二人が見た世界と、イレギュラーな要素への反応と対処法。そして、それらに対する世界の動向。次の段階へと進むために必要なデータ採取は完了したと判断したためである。

 しかし当然ながら、今後も貴重なサンプルとして未央と伶奈の観察は続けていく。新たに興味深い変化が起こり次第、報告をする所存である。





               検体番号一二四九号 未央・伶奈 観察記録

               文責 仮想生活観察研究課 第七班 統括管理官

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