役割交換(後)
昼食を済ませると、二人はうたた寝を始めた。何をするでもなく、日々を暮らし続けているからこそできる優雅な怠惰。
それを何度も繰り返している二人にとって、それは普段通りのことであり、違和感など覚えるはずもないことである。
居間のソファーで、寄り添って眠る二人。望んだ世界で暮らし続けることが、一体どのような結果を生み出すのか。今はただ見守ることしかできない。
「……んっ」
先に目を覚ましたのは伶奈だった。ぼんやりとした様子で視線を泳がせ、自分が置かれた状況を確認している。何もかけずに寝ていたせいか、少し肌寒い。
その目が隣にいる未央を捉え、伶奈はどこか安心したような表情を浮かべた。自分の肩に乗せられた未央の頭を撫で、今も眠り続けている無防備な姿を眺める。
時計を見れば、もう日が傾き始めている時間ということに気付く。夕食の支度をするには都合の良い時間。小腹が空いてくるのは条件反射というものか。伶奈は未央の体を揺り動かす。
「……なあに、どうしたの」
眠たげな目を擦りながら、未央が目を覚ました。言葉は無愛想であるが、声色は寝起き特有の停滞感を含んだ甘いものである。
「そろそろご飯の準備しようよ」
「もうそんな時間なの?」
「そうだよ。ほら、起きて」
「うん……」
渋々といった様子の未央だったが、伶奈はその腕を引いて立ち上がった。作る料理に必要な材料は揃えているので、それらを調理するだけである。
「じゃあ、まずはお米のセットからやろうか。それでいい?」
「伶奈のやりたいようにすればいいよ」
「未央がいつもやってくれてるようにする」
「好きにすればいいのに……」
そう言いながらも、未央の頬は緩んでいた。眠気は既に霧散しているようで、伶奈に向けて潤んだ視線を絶えず送っている。
その様子を視界の端で確かめながら、伶奈は食事の準備を進めていく。普段は未央の補助程度しか手を出さない伶奈であるが、基本的な調理の腕前は持っている。
だからこそ、ほとんど一人ですべての料理を作り上げることができた。いくつか未央の手を借りた場面もあったが、それでも十分な出来だと言えるだろう。
「さてと。出来たてであったかいうちに食べちゃおうか」
「伶奈の手作りかー、きっとおいしいんだろうなあ」
「まあ、あたしの愛が込められてるからね」
「いっぱい食べさせてくれる?」
「食べさせてほしいの?」
「そうした方が、もっとおいしくなるはずだもん」
「可愛くおねだりできたら、ね?」
「……私って、そんなにいじわるかな?」
「うん。優しくいじめるのが未央の得意技だよ」
そう言って未央の頬を数回つつく。未央は口を真一文字に結んで俯いてしまうが、どこかこの状況を楽しんでいる節が隠しきれていない。
「ほら、早くしないと冷めちゃうよ」
伶奈の一声で、二人は料理を運び始めた。立ち上る湯気が天井へと達し、わずかな横移動を経て色を失う。日中の温かさを裏切る寒さが訪れる夜には、暖を取れる物を食べたくなるのはいつの世も変わらないようだ。
夕食は滞りなく進んだ。食べる量を計算して作っていたこともあり、食後のテーブルに残っていたのは空の皿ばかりであった。
片付けを済ませ、ゆったりとした食休みの時間が過ぎていく。人の叫ぶ声も車の通る音もなく、部屋を支配するのは蛍光灯が光と共に放つ低い音だけ。すべての他者から切り離された二人は互いに寄り添い、その存在を確かめ合っている。
未央へと視線を向け、伶奈はそのまま動かない。成り行きを見守り続ける未央は、ただ変わらぬ笑みを湛えて待っている。無防備な姿が伶奈の指を誘う。
そっと伶奈が手を伸ばした。行く先は未央の顔。頬から耳、後頭部へと滑らせて抱き寄せる。未央もそれに応えて抱擁を交わしてくれた。言葉を必要としない、とても静かな意思疎通だった。
抱き締める強弱に波を持たせながら、穏やかな時は流れる。晩春の寒さは漂うだけの概念となり、二人の中へは侵入できない。
「……ねえ、未央」
ぽつりと零れた伶奈の囁きが空気を揺らした。
「ん?」
「ずっと、一緒だよね?」
伶奈にしては弱気な言葉だった。つい口を突いてしまったのだろう。
「当たり前でしょ」
単純ながらも力強い言葉を受け止め、伶奈はゆっくり目を閉じた。
「まだ寝なくていいの?」
「うん。もう少しだけ、こうしてたいな」
時は過ぎ、午後と午前の境目に達しようかという深夜。布団に潜った二人は、眠ることなく手を繋いでいた。腕にしがみ付き、体を寄せているのは未央である。
「今日はどうだった?」
伶奈の問いかけに、未央は少しだけ考える素振りを見せて答える。
「こういうのもアリだね。いい刺激になったし」
言いながら、未央は伶奈の頬に擦り寄っていた。まだまだ楽しむつもりらしい。
「でも、明日になったら終わりなんだよね」
「なんで? 明日もこのままだっていいじゃない」
「未央はいいの?」
「うん。だってアリだねって言ったでしょ?」
無邪気な笑顔が伶奈の心をくすぐった。甘い掻痒感に思わず身震いする。
「じゃあ……しばらくこのままでやってみようか」
「どこまでも伶奈についてくよ」
間近にある未央の顔を窺う伶奈。確かに未央はそこにいる。そして、同じように自分もここに存在している。確認するまでもないこと。
「……未央」
なのに、伶奈は言い知れぬ不安に襲われていた。未央が消えてしまう幻想が唐突に浮かび、一瞬で跡形もなく消える。
「どうしたの?」
「……なんでも、ないよ」
なぜ今のようなことが起こったのか、その理由は伶奈にはわかるはずもない。
どこかに答えを探そうと、伶奈はもう一度未央の方へと視線を送る。連動して動く首、顔、唇。わずかに残されていた距離が、その瞬間に消滅した。
伶奈にできることは、何度も重なり合う唇から伝わる温もりに飲み込まれるだけだった。その熱は、二人の存在が確かなものだと教えてくれる。
胸騒ぎは気付く間もなく失せていた。
*
今回の事象から得られた事実は、伶奈に自我のようなものが芽生えたということである。
当然、その始まりに関する伶奈への介入などは一切ない。自ら役割について考え、そこから導いた結論によって未央に話を持ちかけたのである。
一種の成長とも取れるこれは、非常に興味深い。
直接的に世界へ影響を与える類の事案ではないことから、完全に傍観者として観察することができた。
しかし、これは都合が良いとも取れる。自我を持った伶奈が世界の真実に気付いた場合、未央の時とは違う結果に辿り着いてくれることは容易に期待できる。
そこで待つのは魅力的な未来か、破滅的な終焉か。だからこそ、最後の場面では興味本位から干渉を施してしまったわけだが、現段階ではさほど影響はなかったと見える。
権力を与えすぎたのだろうかという不安もあった。だが、それはすぐに考え直した。結局この二人がいるのは始まりも終わりもない永久不変の生活。これくらいの不確定要素は逆に興味深い。決められた役割を交換したという事実は、そこまで大きく捉えて考慮すべき点なのだから。
まずは、この状況をしばらく観察しよう。
そして、十分な記録が得られたその時が、伶奈への本格的な介入を行う機会となる。




