役割交換(前)
事の発端は伶奈の何気ない言葉だった。
「あのね、未央」
「うん?」
朝食を食べ終え、窓際で日光浴をしながら安らいでいた時のことである。
「今日は役割を交換しようと思うんだ」
伶奈の突発的な言葉に理解が追い付いていないといった様子で、未央は首を傾げている。
「役割って?」
「あたしが未央になって、未央があたしになるの。いつもあたしが未央に甘えてるから、今日はその逆。あたしが未央に甘えられて、それをよしよしってしたいの」
未央はしばらくきょとんとした後、口角を上げて笑みを浮かべる。
「なるほど。面白いかもね」
言うが早いか、未央は伶奈の体に手を回し、その肩に頭を預けた。表情を緩ませて擦り寄るその様は、伶奈と見紛うほどに酷似している。
「未央、ノリノリだね」
「だって、伶奈がこうしてるのをずっと見てたんだもん。私だって本当はこうするの好きだし」
「あーもう、可愛いな未央。大好き」
お返しとばかりに伶奈は未央の頭に手を置いた。長い髪は撫でるごとに指を絡め取る。
「たまにはこういうのもいいね。伶奈とっても柔らかくていい匂い」
「甘えてくる未央って、なんだか小動物みたい」
「褒められたのかな? ありがと」
ますます触れ合う二人の体。この状況を楽しんでいるようにしか見えない。伶奈の提案は本気なのだろうか。
どちらにしても、観察する価値があるだろうと判断する。
二人の柔軟性は想像以上に高かった。
今までの役割を、見事に交換してみせたのだ。伶奈が主導権を握り、未央を引っ張っていく。そんな場面は一つや二つではなかった。
その一例を出そう。二人の役割が交換されてから数時間後のことである。
「んー、中身が寂しくなってるな。補充しないと」
左腕に未央をしがみ付かせたまま、伶奈は冷蔵庫の中を確認していた。
「デパート行くの?」
「行かないとお昼も夜もご飯抜きになっちゃうよ」
「それはイヤだなあ。伶奈と一緒にご飯食べたい」
普段からは想像もできないような甘い目で見つめてくる未央。伶奈も負けじと真っ直ぐ見つめ返す。
「じゃ、行こうか」
「うん!」
二人は衣装部屋に移動し、着替え始める。もちろん、ここでの出来事も例外ではない。主導権は常に伶奈が握っている。
「ねえ未央、あたしが着替えさせてあげる」
言い終わる前に、伶奈は未央の服に手を伸ばしていた。未央は抵抗する様子もなく、されるがままになっている。
衣擦れの音と共に取り去られていく衣服。未央を下着姿にしてしまうと、伶奈は衣装ケースを開けた。お気に入りの衣装を目にして気分が高まる。
「どれにしようかなーっと」
その姿を見て、未央は疑問を口にする。
「ねえ、それって伶奈の洋服入れでしょ? 私の服はこっちだよ」
振り向いた伶奈の顔には、いたずらを思いついた子供のような笑みが浮かんでいた。咎めることが過ちであるかのような無邪気さと、有無を言わせぬ強引さ。
「あたしの服を未央に着せてみたいんだ。サイズ的に着れなくはないでしょ?」
「まあ、身長も体重もそんなに変わらないからね」
「それでね、あたしが未央の服を着るの。そういうのも、なんかよくない?」
「中と外、両方を交換するってことね」
未央は伶奈の隣にしゃがみ、自分の服が選ばれる様子を観察し始めた。伶奈は見せつけるようにいくつか服を取り出しては戻している。
「よしっ。やっぱりこれにしよっと」
伶奈が選んだのは、自分でも気に入っている服だった。落ち着いた色合いと肌触りの良さを兼ね備えたそれは、暖かな陽気の今に調和している。
「決まったの? ねえねえ、早く着せてよ」
「ふふっ、焦らなくても大丈夫だから」
伶奈は流れるような手捌きで未央に服を着せた。それは未央の体を無駄なく覆い、本来の持ち主が誰なのかわからなくなるほど似合っていた。
「次は伶奈の番だね」
未央が伶奈の胸元を軽く突いた。指を動かして服の上からくすぐりながら、僅かな身長差を利用した上目遣いで伶奈を射抜く。
「あたしを着替えさせたいの?」
その手を掴み、伶奈は言った。強く握ったわけではないのだが、未央の手はそれ以上動かなくなった。指を絡め取られては無理もない。
未央は言葉なく頷いた。そこまでされて、伶奈に断るという選択肢が浮かぶはずもない。それに、胸の鼓動が高まっているという隠しきれない喜びもあった。
「なら、いいよ」
伶奈は未央の手を離した。すぐに未央が伶奈の服を脱がしにかかる。続けて未央が自分の衣装ケースから服を選び出す。数分前と似たような光景。未央が自分の服を伶奈に着せる前から、未央も同じ考えを抱いていたのかもしれない。
今の季節に合致した装いになった二人は、しばし互いの姿を眺め合った。渾身の出来となった着せ替え人形を観察するような目と手の動き。
一通りじゃれ合って、伶奈はようやく着替えた目的を思い出した。未央の手を引いて、暖かな陽だまりへと向かう。
「ポカポカしてあったかいね」
外に出た二人を迎えたのは雲一つない青空。咲き誇る桜と、その下に広がる花びらの道。時折強く吹く温かい風が、春の歌を奏でている。
「伶奈の方があったかいよ。ほら、こんなに」
そういってしがみつく手に力を込めた未央。それはまさに、普段の伶奈そのものであった。だが、当の本人は腑に落ちない表情をしている。
「あたしっていつもこんなだっけ?」
「そうだよ。私にベッタリだもん」
「そっかー……なんか、ちょっと照れる」
「もっと照れちゃえ、ほらほら」
「未央ったら……もう」
身を寄せ合いながら、二人はデパートへ向かって歩を進めた。地平線に浮かぶ薄雲に向けて吹く風が、その背中を押している。




