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認識対象  作者: 虹月映
第二章 伶奈
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望まれた病(後)

 どれだけの時間そうしていたのだろうか。

 何も思い浮かばぬまま呆けていると、未央が目を開いた。伶奈はそれをぼんやりと眺めている。起きたんだ、という単純な感想しか出てこない。

 部屋の中を巡っていた未央の視線が伶奈を捉える。


「伶奈、どうしたの。そんな顔して」


 その声は掠れ、未だ辛そうな色が消えていない。


「あたし、何も思いつかないの。未央を看病するって言ったのに、どうしたらいいかわからない。なんであたしってこんなに情けないのかな」


 途中から声は震え、目には涙が浮かんでいた。伶奈が背負った重圧はあまりにも大きかった。


「だめだよ、それじゃ。看病するなら明るく元気じゃないと。その元気を貰って看病される方は回復するんだから。ほら、いつもの伶奈に戻って」


 未央の手が伶奈に触れた。普段よりも熱く、そして色と力のない不安定な五本指。

 小さく頷いて、伶奈は表情だけ元に戻した。


「でも、あたしどうすればいいの?」

「伶奈がしたいことをすればいいんだよ」

「あたしが、したいこと……」

「そう。伶奈はどうしたいの? 思うままにやっていいんだよ」


 未央の言葉に、伶奈は再び考え込む。


「あのね、未央のことしか浮かばないの。あたしが未央を元気にしてあげたい」

「それでいいんだよ。伶奈には困り顔は似合わないから」

「いいの? 未央は困らない?」

「ありがとう。伶奈の優しさはちゃんと届いてるよ」


 視線を交わし、頷き合う二人。それで意思疎通は完了した。


「わかった。それじゃ、今は未央を見ていたいからここにいるね」

「そう。私はまた眠るけど、伶奈も体調には気を付けてね」

「うん。未央、おやすみ」


 未央はそっと目を閉じた。静かな呼吸で安らぎの表情を見せている。

 宣言通り伶奈は未央を見守っていた。その場から動かずに、それが呼吸と同じくらい重要であるかのように視線を保っている。全く苦になることはなかった。むしろ未央から離れることが伶奈の苦しみだった。


 やがて未央が規則正しい呼吸を始めた。わずかな上下を繰り返す掛け布団を見ながら、伶奈は改めて自分に問いかける。未央のために何ができるのか。

 ふと視線を上げると、水が少し入ったままのグラスが目に入った。先ほど未央が置いたまま放置されている。その透明さに答えを見出そうとするかのように、わずかに揺れる水面を見つめ続けた。


「……よしっ」


 未央に視線を送り、伶奈は立ち上がった。グラスを持って部屋を出る。

 再びリビングに下り、冷蔵庫を開ける。今日見るのは三回目なので、中に何が入っているかは記憶していた。今見たのは、自分の考えを成立させるために必要な物があるかの確認をするためだった。


「うん、大丈夫。これならいける」


 伶奈は呟いてグラスを流しに置いた。空いた手で冷蔵庫から昨夜の残りご飯や野菜など材料を取り出す。


「待っててね、未央」


 冷飯を適量取り分けてから流水で洗う。鍋にめんつゆと水を入れて一煮立ち。沸騰を待つ間に切っておいた椎茸を入れてさらに煮る。無駄がないように、軸の部分も細く切って入れてある。

 頃合を見計らって弱火にし、冷飯を入れてから蓋をずらして置く。吹きこぼれないように注意しながら野菜を切っていく。長葱や人参などを食べやすい大きさに切り、それらを鍋に入れる。

 試食で適度な柔らかさになったのを確認して溶き卵を流し込む。数秒後に火を止め、余熱で卵を固める。器に移して梅干と塩昆布を乗せれば、伶奈特製手作り雑炊の完成である。


 自分で作り上げた料理が目の前にある。これを未央が食べてくれたらどれほど幸せか。熱いだろうから、少し冷ましてから食べさせてあげよう。今から未来を想像して表情が緩む。

 だが、そこで重要なことに気付いた。


「未央、起きてるかな……」


 もし眠っているならば、そのままにさせてあげたい。しかし、完成したばかりの雑炊を食べてもらいたい。でも、未央を無理に起こすことはできない。

 思考は空転を繰り返す。

 その時、突発的な行動を悔やむ伶奈の耳に微かな足音が飛び込んできた。リビングの扉へ駆け寄り、勢いよく開けてみる。


「わっ、びっくりした。いきなり開けるんだもん」


 扉の前に立っていた未央は驚きながらも、どこか力が抜けたような顔をしていた。


「起きてていいの?」

「まあね。ちょっとお腹も減ってきたし、何か食べたいなって」


 その瞬間、伶奈の進路に光が差した。訪れた好機に手を伸ばす。


「あ、あのね、雑炊作ってみたんだけど、食べる?」

「伶奈が作ったの? 食べたいな」

「やったあ! こっちだよ」


 ふらつく未央の体を支えながら椅子に座らせ、ソファーに置いてあった膝掛けを未央に掛けた。キッチンから雑炊を入れた器を運んで机に置き、レンゲに適量すくって冷ます。


「自分で食べられるから大丈夫だよ」

「あたしが食べさせてあげたいの。だめ?」


 伶奈が持つレンゲが行き先を見失う。


「だめじゃないよ。ほら」


 そう言って未央は口を開けた。


「はい、あーん」


 未央の口内にレンゲを差し入れた。その口が閉じられてから、伶奈はゆっくりと引き抜く。未央が味わい、飲み込む姿を見ながら、どんな感想が返ってくるかを待つ。一人で料理をすることはあまりないが、出来栄えには自信があった。


「べたついてなくて食べやすいね。それに、とてもおいしい」


 その言葉が伶奈に最大級の喜びをもたらした。


「そ、そうかな」


 伶奈が照れたように俯くと、その頭にそっと手が置かれた。むず痒いような気分になり、顔が赤くなるのがわかる。


「うん。ありがとね。伶奈がいてくれると、私とても嬉しいんだ」


 手が動き、頭を撫でられる。普段より緩やかなのは風邪で力が入らないのか、それとも加減しているのか。髪の隙間に入り込んだ手から、絶妙な刺激が伶奈の脳に直接送り込まれる。

 そのまま伶奈は、未央の手が休まるまで甘美なぬるま湯に浸り続けた。






「ねえ未央、薬ってどこにあったっけ?」

「そこの引き出しにあったはずだけど」

「あたしが取ってくるね」


 伶奈は引き出しから風邪薬を取り出し、水の入ったグラスと一緒に机に置いた。しかし未央の隣には戻らず、素通りしてキッチンへ向かう。


「ありがとう。伶奈も座ったら?」

「ううん。ちょっと、ね」


 コンロの下にある戸棚を開け、伶奈は小型の雪平鍋を取り出した。続けて冷蔵庫からいくつかの食材を取り出す。


「すぐできるから、少しだけ待ってて」


 鍋に水とおろし生姜を入れ、適度な温度まで熱する。気泡が出始めた頃に火を止め、ティーカップに移す。蜂蜜を入れてスプーンを添え、混ぜながら机に戻る。


「生姜湯か。体が暖まりそうだね」

「うん。材料あったから作ってみたんだ」


 カップを置き、スプーンで生姜湯をすくって冷ます。視線を交わせば、すぐに未央が口を開いた。吸い込まれるように動かされるスプーン。喉が嚥下の動きをしたのを確認してスプーンを抜く。

 一連の動作が、伶奈の目にはとても緩慢な速さで映っていた。


「ちょうどいい味。もっと飲みたい」

「ほんとに? それじゃ、はい」


 伶奈は嬉しそうにスプーンを動かした。それから数回同じ行動を繰り返し、未央が「あとは自分で飲めるから」と言うまで続いた。

 未央が生姜湯を飲み終えると、場を静寂が支配する。伶奈は横目で何度も未央の様子を窺っているが、どんな言葉をかけるべきか名案が浮かばずにいた。


「伶奈、今日は静かだね」

「うん。未央、喋るのが辛そうだから」

「確かにちょっと喉が痛いけど、無理ってほどじゃないよ」

「声が枯れてるよ。いつもと違う」

「そっか。じゃ、私も静かにしてようかな」

「それがいいよ。また横になった方がいいんじゃない?」

「そうするよ。よっと……ありがとう」


 立ち上がろうとした未央の体を伶奈が支えた。特に合図がなくても息の合った行動ができるのは、やはり二人の信頼が成せる業であろうか。


「もっと寄り掛かってもいいよ。楽でしょ?」

「うん、助かる」


 階段は一歩ずつ確実に踏み締めて上る。不可抗力で強く抱き寄せてしまったが、未央は何も言ってこない。過剰なまでの熱をその身に浴びながら伶奈は未央を寝室に運び、ベッドに座らせた。


「ちょっと待ってて。未央の着替え持ってくるから」


 寝室を出て、すぐ隣の衣装部屋に入る。未央の着替えは何がどこに入っているか完璧に把握しているので、迷うことなく新しいパジャマと下着を取り出すことができた。寝室へ戻るまでに要した時間は三十秒にも満たない。


「早いね」

「未央のことは全部わかってるもん。着替えの場所も、お気に入りの場所もね」

「それなのに風邪薬がどこにあるかはわからないんだ」

「だって未央と関係ないことだもん」


 そんな会話をしながら、伶奈は未央のパジャマを脱がせていく。上をすべて脱がせて新しいパジャマを着せ、下も同じように着替えさせた。未央の素肌はきめ細やかで、触れた指に返ってくる弾力と温もりが、伶奈まで発熱させようとしていた。

 着替えが終わると、伶奈は未央を布団に寝かせた。横に座った伶奈は、未央が眠るまで手を握ったり、頭を撫でたりしていた。未央が眠ってもしばらくそうしていたが、ふと思いついたように伶奈は立ち上がる。

 自分にできることを、また一つ思い付いたのである。


 キッチンからペットボトル入りのスポーツドリンクと、ボウルに水とタオルを入れたものを持ってきた。熱そうにしている未央の頬に濡れタオルをそっと当てる。未央は体をぴくんと震わせたが、すぐに安らぎの表情を浮かべた。

 スポーツドリンクは自分が飲んでもいいし、未央が目を覚まして水分を欲しがったらあげてもいい。どちらにしても、この部屋に長時間居続ける準備はできた。伶奈は再び未央の頭を撫でた。その額からは、普段と違う熱が変わらずに放出されている。


 ほとんど未央のそばにいたせいで、伶奈はまともな食事をしていなかった。未央と一緒でない食事は味気なく、ひどくつまらないものに思えたのも原因の一つだった。

 それでも伶奈が体調を崩すことはなかった。むしろ未央の近くにいることが伶奈の活力となっているようだった。伶奈が今こうして未央の隣に居続けようとしたのも、どこか本能に近い部分でそうするべきだと直感したのかもしれない。






 未央はそれほど重症ではなかったこともあり、翌日には一人で動けるほどに回復した。それでも、まだ少し体がだるいということもあり、昨日と同じように伶奈が付きっきりで世話という名目の戯れをしていた。


「はい、あーん」

「あーん」


 限度なく行われるやりとり。それは二人の信頼を表している。もし伶奈が風邪をひけば、今度は未央が熱心に看病をするのだろう。

 それが二人の望む世界なのだから。





          *





 基本的にこの世界は未央と伶奈、二人の思い通りに動いている。今回は伶奈にその傾向を強めてみた。つまり、伶奈が思うような世界が作られるということである。

 未央が風邪をひいた一連の流れは、たったそれだけのことで説明がつく。

 つまり、未央が風邪をひいたのは伶奈がそう望んだからなのである。複製のように続いている日常に、新たな変化と刺激が欲しいと望んだ結果だった。本人さえ気付かない深層心理の欲望を読み取り、それが叶うように世界が動いたのである。


 それだけではない。

 冷蔵庫の中に雑炊や生姜湯の材料が揃っていたのは、伶奈が手料理を食べさせたかったからである。そこに未央が都合良く現れたのは、すぐに食べてほしいと伶奈が思った結果。未央が一日で回復したのは、早く治るように伶奈が願ったから。

 影響が顕著で極端ということは否めないが、あくまでも二人の間だけに関するものなので、このまま様子を見続けても問題はないであろう。起こり得る事案の吟味は多いに越したことはない。

 いざとなれば、どのようにでも取り返しをつけられるのだから。

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