第89話:偽物の幸せ
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1月×日
ばあちゃんが死んだ。あんなに元気だと思っていたばあちゃんが死んだ。もう、ばあちゃんに会えないんだ。大事な人を始めて亡くした俺は、やり場のない寂しさや苛立ちを由菜にぶつけてしまった。
俺が言った言葉で、由菜は傷ついたに違いない。留学をやめると言うかもしれない。俺なんかの為に、やめるなんて絶対に許さない。あの言葉は、一時的な感情で出てきてしまったものなんだ。
確かに、由菜にはずっと傍にいて隣で笑って欲しいって思うさ、でも、それじゃ駄目だ。俺に由菜の夢を奪う権利なんてないんだ。俺は、絶対に由菜には夢を叶えて欲しい。俺と一緒にいる為に何かを犠牲にするとか絶対にしてほしくない。俺達は大丈夫だよ。離れていたって俺達は大丈夫。この気持ちがいつか由菜にも伝わるといい。
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由菜は、最後のページをめくった。辰弥が最後に書いた日記。それは、由菜が帰国した日に書かれたものだった。
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3月◎日
今日、由菜が帰ってくる。この1年、毎日電話やメールをしたいのに我慢してきた。由菜があんまり連絡を寄越さないのは、日本が恋しくなるのを恐れてなんだろう? 俺が恋しくなっちゃうからなんだろう?
そうであって欲しい。俺の事、忘れてないよな? これから、空港に向かう。由菜が俺の事をもう好きじゃなかったら、そう考えると少し怖じ気ずいてしまう。でも、そうじゃないよな、由菜。もう二度と、俺から離れないでほしい。いや、もう放さないよ。由菜、覚悟は出来てる? 今、君を迎えに行くよ。
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由菜は、ノートをぱたんと閉めるとすくっと立ち上がり、椅子の上に置いてあったカバンを掴むと部屋を出た。
「由菜、今日も行くの?」
階段の途中で、ジュディに出くわした。うんと頷くと軽く微笑んだ。
「あんまり根詰めるのはよくないのよ」
「ふふふっ、ジュディそんな日本語よく知ってるのね? 心配しなくても私は大丈夫よ」
ジュディの日本語を吸収する早さは物凄い。アメリカにいた時もよく由菜が教えていたが、ここ日本に来てからは下手すると由菜でも知らない単語とかを言い出したりするので困っている。
「柏木に教えて貰ったの」
嬉しさを懸命に隠そうとしていた。きっと由菜に気を使っているのだろう。
ジュディは、柏木君と同じクラスになり、急接近していた。以前日本にいた時にも何かとジュディのフォローをしていた柏木君なので、仲良くなるのも早かった。今回は、ジュディが大分日本語が上手くなっていたので、意志の疎通も出来るようになったのだ。まだ付き合ってはいないようだが、そうなるのも時間の問題だと由菜は考えている。ジュディの体からは、隠しておいたって幸せオーラが滲み出ているのだ。
「ジュディ、私の事は気にしなくていいの。柏木君と上手くいってジュディが幸せそうにしていたら私だって嬉しいんだからね」
由菜がそう言うと、ジュディに抱きつかれた。ジュディは、ここが階段だという事を忘れているのか、由菜はバランスを崩しそうで怖かった。
「ありがとう、由菜。大好き」
ジュディは、由菜にとって今では妹のような存在だった。確かに過去にいざこざがあったが、今は二人ともそんな事忘れてしまったかのように仲が良い。由菜だって、口には出さないが、ジュディが大好きなのだ。彼女に由菜がどれだけ救われたことか。辰弥がいなくて寂しい夜、二人で何時間でも語り明かした。由菜が泣きたい時は、いつでも胸を貸してくれた。良き理解者であり、良き友達、良き家族。ジュディとはそんな関係が出来上がっていた。
「はいはい。お気持ちは非常に嬉しいです。じゃあ、行って来るね」
首に絡まっていたジュディの腕をやんわりと外し、手を振って階段を軽快に下りて行った。
由菜は知っている。ジュディが今どんな表情を浮かべているのか。由菜を心配して、痛々しいものでも見るような眉を歪め、苦しそうな表情。
由菜が笑っていても、みんないつもそんな表情を浮かべている。父も母も、伯母さんも、伯父さんも、ジュディも、加絵も、隼人も……。みんな腫物を触るように由菜に優しい。
私は大丈夫なのに……。
私は、辰弥が好きって気持ちだけで幸せでいられるのに……。
今、私が笑っていられるのは、みんなのおかげなんだよ。
ねぇ、だからそんな顔しないで。
私は、幸せだよ。大丈夫だよ。
由菜が、そんな事をゆっくり歩きながら考えていると、向かい側から加絵と隼人がやってくるのが見えた。
「由〜菜〜! 元気〜?」
高校生の時のままの大きくて明るい声で、小走りで近づいてくる。その屈託のない笑顔に自然と笑みがこぼれる。
「今日も行くの?」
加絵が由菜の元に着くと、笑みに少し影を落としそう言った。隼人が漸く追いついて来ていた。由菜はうんと、笑顔で頷いた。
「私達も行ってもいいかな?」
「ごめん、あのね、今日辰弥の誕生日なの。二人で誕生会しようって約束したんだ」
「そっか、それじゃ邪魔出来ないよね……」
加絵が少し悲しそうな顔をした。
みんな私の顔を見て悲しそうな顔をする……。
私は、みんなを周りを不幸にしてるのかな…。
私は幸せだと感じているのに、みんなは悲しいと感じている。
なんか私って疫病神なのかな?
由菜が、一人俯いて考え込んでしまっていると、加絵が口を開いた。
「由菜……大丈夫?」
加絵の問いに由菜はにこりと微笑んだ。
「お前が、笑うと無理しているように見えるんだよ。お前は本当に嬉しくて笑ってるのかもしれない、本当に楽しくて幸せだと思っているのかもしれない。だけど、俺達にはお前の笑顔が悲しそうに見える」
隼人がまるで、由菜が考えている事を見透かしたようにそう言った。
「私は……、どうしたらいいのかな? 本当に今幸せだと思うよ?」
「その幸せが本当の幸せじゃないからじゃないか? 本当に幸せになれよ」
私が、幸せじゃない?
私が感じているこの幸せが、偽物だって事なの?
分からない……本当の幸せって何なんだろう……。
「悪い。悩ませちまった。あまり深く考えるなよ」
隼人が由菜の頭をポンポンと叩く。その行動が、由菜に辰弥を思い出させた。辰弥もよくこうやって由菜の頭をポンポンと叩いた。
由菜は、涙が零れ出してしまった。視界の隅に、由菜を泣かせてしまったとあたふたとしている二人の姿が見える。
大好きな二人の友人、ごめん、驚かせてしまって。でも、今は涙が止まらないの。
次回、最終話になります。




