第86話:寂しいキス
世界で一番寂しいキス……。
そのキス、痛く悲しく、そしてほんの少しの希望の味がした。心が痛かった。もう二度とキスをする事もないかもしれない……。嫌な想像が由菜を苦しめる。息が出来ないくらいに苦しい。でも、泣かなかった。
笑顔でまたねってしたかったから、未来があるって信じたかったから。
辰弥に手をとられた。辰弥の手は恐ろしいくらいに冷たかった。何度も何度も繋いだ手。大好きな美しいピアノを奏でる長い指。この手の感触を忘れないように、全身でそれを感じようとした。
両親が戻って来てからも辰弥は手を放そうとはしなかったし、由菜もその手を放したくはなかった。
暫くすると、加絵と隼人が見送りに来てくれた。笑顔を携えて二人は由菜に近づいてくる。だが、近づくにつれ露見する加絵の赤い目。泣いていないのは、由菜と約束したから。姿を現す前に大分泣いて来たに違いない。
「加絵、そんな顔しないでよ。一生の別れじゃないんだよ…。すぐに帰って来るんだから、ね?」
加絵は、口をへの字にし、今にも泣き出しそうな顔をした。それでも、根性で食いしばっているようだった。その顔が可愛くて、愛おしくて抱きしめたくなった。
「私、短大行っても由菜ほどの友達出来ないと思う。寂しいよ…」
「加絵には、新しい友達すぐに出来ちゃうよ、だって加絵は優しいし面倒見いいし、いい子だもん。私の事なんか忘れちゃうかもよ?」
「もし、新しい友達が出来たとしても、やっぱり私の中の一番は、由菜だよ…。ずっと…」
「うん、ありがとう。私もそうだよ。これからもずっと友達でいよう。おばあちゃんになっても」
うんと、加絵は頷き下を向いてしまった。いよいよ涙を隠せなくなってしまったのかもしれない。隼人が隣で心配そうに見つめている。加絵は大丈夫。隼人がちゃんと支えてくれる。
「隼人、加絵の事よろしくね。隼人、鈍感だからちゃんと加絵の不安とかに気付いてあげてよね。加絵って相手に気を遣いすぎて言いたい事言えない所あるんだから。私の大切な友達なんだから泣かせたりしたら承知しないわよ」
「分かってるよ。こいつの事は俺に任せろ」
そう言って、加絵の頭をがしがしと撫でた。由菜は、嬉しそうに頷いた。
時間が来た。
由菜は皆の前に立ち、深々と頭を下げた。
「皆、ありがとう。行ってきます!」
明るく大きな声でそう言った。そして、背筋を伸ばして歩き始めた。
みんなの姿が見えなくなる直前もう一度振り返り大きく手を振った。辰弥と目が合った。「大好きだよ」そう言ってくれた気がした。「私も大好き」そんな思いを込めて、見つめ返した。届いただろうか、届いているに違いない、そう思った。
そして、彼らの姿が由菜の視界から消えた。
その途端、耐えてきたものが一気に溢れ出した。由菜は、歩きながら声を殺して泣いた。拭っても拭っても涙は溢れ出てくる、由菜の意志とは関係なく。
由菜の飛行機が離陸し、ベルト装着のサインが消えると、辰弥から貰ったホワイトデーのお返しを取り出した。小さな紙袋の中から便箋が出て来た。
由菜はそれを手に取り開いた。
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Dear 由菜
由菜にこうやって手紙を書くのは初めてで、何から書けばいいのか迷うよ。
俺は、由菜に出会えて本当に良かったと思ってる。こうやって、同じ家で同じ時を過ごせるなんて思っても見なかったよ。なんとなく、ばあちゃんがそんな機会を意図的に用意してくれたようにも思えるけどさ。
由菜、俺と由菜の間には、ほんの少しだけどいつも見えない距離があったんだ。
隣にいても、抱きしめても、キスしてもそこには必ず距離があった。
そうだな、具体的に言ったら1cmってところかな。どんなに埋めようともがいてもその距離は、一向に埋まらなかった。たった1cmが。
由菜、でも俺は諦めない。由菜が帰って来て、そして俺を好きだって言ってくれた時、その時その距離は埋まると思うんだ。
だから、俺は待ってるよ。待つなって言われたって、俺は待つよ。俺の片想いは長いんだぞ。たった1年なんて俺にしてみれば、大したことない。
どんな距離も、どんな事件も、俺の心から由菜を追い出す事は絶対に出来ないんだ。俺の心は由菜から離れない。もし、由菜がアメリカで違う男を好きになって帰って来たとしても、俺はまた一から由菜を口説き落とすよ。俺がこの世で好きになる人はきっと由菜だけだって、産まれる前から決まっていたのかもしれない。
だから、由菜は何も心配せずに勉強に励めばいいんだよ。
由菜、大好きだよ。
P.S. ホワイトデーのお返しとして、腕時計を贈ります。左は日本の時間に合わせてあるから、向こうに着いたら、右はそっちの時間に合わせて。これがあれば、電話する時、いちいち時差の計算しなくていいだろ?
From 辰弥
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便箋の上に、ぽたりぽたりと涙が落ちる。
1cmの距離を作ったのは私……。
私のせいで、辰弥はもがき苦しんでいた。
過去にとらわれ過ぎて辰弥を信じ切れなかった私が……。
辰弥を苦しませて、自分も苦しんで、私は何をしていたんだろう。
今なら好きって言えるかもしれない。だけど、辰弥の前でもっと胸張って言えるように、どんな事があっても辰弥を信じ切れるような強い心になる為に私は進まなきゃ。
だから、もう泣くのはやめよう……。でも、今日だけは…今日だけは泣かせて……。
由菜は、次から次へと零れていく大粒の涙をもう止めようとはしなかった。
窓側の席、隣に誰もいない事に感謝した。窓の外に広がる雲の海を霞んだ目で見ていた。込み上げてくる涙が枯れ尽きるまで……。




