第83話:二人きり
公園を出た時、直感でみゅうと会うのはこれが最後だと思った。引き返したいと思った。引き返して、みゅうを連れて戻りたいと……。だが、みゅうの望んでいる事ではない。悲しい思いを振りきって歩を進めた。
「辰弥、お願いがあるんだけど…」
「みゅうの事でしょ? 俺、こっち戻ったらちょくちょく様子見に来るから」
「うん、ありがとう」
んと、頷きとも返事ともとれない物言いをし、辰弥は微笑んだ。
由菜は、この突然のみゅうとの再会に驚きと喜び、そして悲しみを感じていた。由菜はどんな顔をしていいのか分らなかった。
「喜んでいいんじゃないかな。みゅうに会えたんだから。今は、それだけを考えれば」
辰弥の由菜の心を見透かしたような言葉に驚いたが、「そっか、そうだね」と頷いた。
あの場所で、今みゅうに再会した事に何らかの運命めいたものを感じていた。
辰弥の家に来るのは久しぶりだった。
お祖母さんが亡くなってから、辰弥はまたピアノのレッスンを休んでいた。辰弥は休む必要はないと言っていたが、伯母さんに「4月からまた再開すればいいのよ。無理しないで」と言われ、辰弥としては悔しい気持ちも感じていたようだが、母親の気持ちをくんでその言葉に従った。お祖母さんが亡くなった時の辰弥は、とても不安定だったので、伯母さんは必要以上に辰弥を心配していた。それを、辰弥も理解していた。
今にして思えば、もちろん伯母さんの事もあっただろうが、由菜が留学するまでなるべく傍にいるためだったのではないかと、そうも思えてくる。
コンビニでジュースとお菓子を買い、辰弥の家に向かった。
辰弥の家に着き、リビングに入るとソファーに身を沈め、ジュースを飲んだ。
「二人っきりだね」
辰弥がニタニタしながら由菜にそう言った。
由菜は辰弥が何故こんなににやけているのか理解出来なかった。
「うん、そうだね?」
意味も分からずとりあえずそう返しておいた。
「俺が悪い男じゃなくて良かったね。由菜、無防備すぎ。俺がいきなり由菜を襲ったらどうすんの?」
その言葉にやっと辰弥の言葉とにやけた顔の意味が分った。
「ななななな何言ってんの〜?」
完全にどもり、語尾が変に上がっていた。由菜は茹でダコみたいに頬も耳も、それどころか体全体が赤くなってしまった気がした。
「由菜、俺も男なんだから、好きな事二人になったら、あ〜んな事や、こ〜んな事したくなるんだよ」
辰弥は、そう言いながら、由菜に近づいて来た。由菜は金縛りにあったみたいに辰弥を見詰めたまま身動きがとれなくなってしまった。辰弥は口元は笑っているが、目は笑っていなかった。
怖いと思った。
辰弥と二人でいて、こんな雰囲気になった事は今まで一度だってなかった。
辰弥がどんどん近付いて来て、由菜のすぐ目の前にまで来た時、由菜は身を硬くし、咄嗟に目をギュッと瞑った。
気配で、辰弥がすぐ近くにいるのが分った。
何かされるっと思い、一層体に力を入れた。その瞬間、頭のてっぺんで何か柔らかいものが当たった感触がした。
恐る恐る目を開くと、至近距離で辰弥が笑っていた。瞬く間に自分がからかわれただけだった事を理解する。頭のてっぺんに軽くキスされたのだと知った。
急に腹が立ってきて、辰弥の胸にパンチした。
「痛ってぇぇぇ」
自分では、軽くパンチしたつもりでいたが、あまりに辰弥が痛そうにするので、慌てた由菜は辰弥を覗き込み、「大丈夫?」と言った。「うっそ」辰弥はそう言い、それと同時に由菜は、辰弥の腕の中に捕らえられてしまった。
そっと抱きしめられ、また体を硬くした。抱きしめられる事はこれまでにもよくあったが、先ほどの会話がある為、妙に意識をしてしまった。
「俺、由菜が嫌がる事は絶対しないよ。ごめん、さっきのはからかっただけ。でも、こんなに頑なに拒まれたら凄い傷つく」
「いやじゃないよ! ただ、恥かしくって、怖かった……」
「俺が本当に何かすると思った?」
「だって……、さっきの辰弥、いつもと違くて怖かったんだよ」
「怖がらせてごめん。やり過ぎた。でも、本当に由菜が嫌がる事はしないから」
うんと、由菜は小さく頷いた。
「だけど、俺も男だからさ、好きな子にはもっと触れたいって思うよ」
「辰弥は私に触れたいって思うの?」
「もう、触れてるよ…」
「そうじゃなくって…」
「ああ、そりゃ思うよ。でも、今は我慢する。由菜が返って来てからの楽しみにするよ。でも、こうやって抱きしめるのとキスをするのは拒ませないよ」
辰弥は、由菜の顎をくいっと強引に上げ、由菜の唇を塞いだ。初めての長い大人なキスに由菜は眩暈がした。
いつもの触れるだけのキスとは全く違う。由菜は激しいキスに頭が真っ白になり、息をするのも忘れ、自分の体を支える事すら出来ずにがくっと崩れ落ちた。それを辰弥がしっかりと支え、ゆっくりと唇を放した。
「どうだった?」
「……ばか」
荒い息をしたままそれだけ絞り出した。
由菜は、ボーっとした頭で、辰弥を見上げると辰弥も顔も耳も赤かった。
「辰弥……顔赤い」
由菜が、ぼそりとそういうとぎくりとした顔をした。そして何かを諦めたようにこう言った。
「俺だって、初めてなんだ。人をこんなに好きになるのも、抱きしめるのも、こんなキスをするのも。俺だって恥かしいんだ」
「そっか、一緒なんだね。なんか安心しちゃった…。えへへっ」
辰弥も同じように感じているんだって思ったら妙に安心してしまった由菜は、にへらと笑った。
そのしまりのない笑顔に、辰弥は頬っぺたを抓った。そして、由菜の変な顔を見てくくくっと笑い、おでこにもう一度短いキスをした。由菜はそっと目を閉じた。
「ピアノ弾こうか?」
辰弥の声に目を開けると、辰弥の目が由菜を捕らえて放さなかった。その奇麗な目に吸い込まれてしまいそうで身震いした。辰弥もまた、由菜の瞳を食い入るように見ていた。
「そんな瞳で見つめられたら、またキスしちゃうぞ」
辰弥のその言葉に、もう一度キスして欲しいと思ってしまった。でも、それを知られたくなくて思わず目を逸らした。
好きな人に触れたいと思うのは、由菜も同じ。抱きしめて、キスして欲しいと思う。でも、それを上手く辰弥に伝える事は出来なかった。




