第80話:卒業式
2月も下旬になり、辰弥は学期末試験に向け、毎夜遅くまで勉強に勤しんでいた。
由菜は、そんな辰弥を見ながらもう高校でテストを受ける事も無いんだなと思うと嬉しいような、少し物足りないような変な気分になった。
高校を卒業するっていう事は、一種の伏し目の様な気がする。実際の義務教育は中学校までだが、大抵の人は高校へと進学する。ここまでは、誰もが同じように勉強し、テストを受ける。高校を卒業すると、大学、短大に行く者、専門学校に行く者、そして就職する者と進路が大きく分かれる。同じ年の同級生と机を並べるのはここで終わるのだ。
小、中学校と卒業式を経験してきたが、高校の卒業式が一番お別れという度合いが強いように思う。ここで会った人でも、下手をすれば二度と会わない人もいるだろう。実際は、そういう人の方が多いのかもしれない。
卒業式は、もうすぐそこまで来ていた。
卒業式当日。
その日は晴れていたが、真冬の様な寒さだった。
久しぶりに着馴れた制服に袖を通し、階下に下りて行った。
いつものように「おはよう」と母に声をかけると、母からもいつもと変わらぬ「おはよう」が返って来た。
テーブルに着き、いただきますと言って、トーストに齧りつく。
「今日で最後ね。大きくなっちゃって、嬉しいような寂しいような」
由菜が食べている正面に座り、頬杖をついて感慨深げにそう呟いた。
「なんで寂しいの?」
「親ってもんはね、子供に早く大きくなれっていうけど、実際大きくなられると悲しいものよ。これで子育ても終わりかって思うと、張り合いが無くなっちゃうのよね。由菜がアメリカに行ったら、お父さんと二人で寂しくなるわ。じきに辰弥君も自分の家に戻っちゃうしね」
伯母さんは、4月までにはこちらに戻って来るとの事。
お祖母さんが住んでいたあの家は、借家として人に貸す事にしたらしい。思い出がたくさん残ったあの部屋を壊して売りに出す事は、どうしても出来なかったようだ。
もう既に、貸す相手も決まっている。伯父さんの高校の時の同級生が、大阪にいたのだが、転勤でまた地元に戻ってくる。しかし、実家には既に長男夫婦とその子供たちが住んでおり、そこに入り込めるスペースはもはやなかった。近くに家を探しているところにちょうど良くお祖母さんの家を貸し出したいと伯父さんが言っているのを聞いて申し出て来たのだという。そうとなったら、とんとん拍子に話は進み、春休み中にはお祖母さんの家に引っ越してくるそうだ。
それに伴い、辰弥も春休み中に自分の家に戻る事になっていた。
「本当、一気に寂しくなるわ。私も働きに出るか、何か習い事でもしようかしら」
頬杖をついたまま由菜をぼんやりと見ながらまた呟いた。
「そうだよ、お母さんも何かやるといいよ。ほら、やる事が無くって張り合いがなくなると、一気に老けるっていうからね」
「あんた、嫌な事言うわねぇ」
母は苦笑を浮かべ、恨めしそうな顔で由菜を見た。
そこへ、辰弥が下りて来た。
「おはよう、早いね」
今日は、一年生は学校が休みの筈だ。卒業式には、卒業生と二年生が出席する事に決まっている。一年生で卒業式に出るのは、吹奏楽部の人だけだ。
「由菜の見送りしようと思って、早起きした。本当は、卒業式も出たいんだけどな」
残念そうに眉を潜め、由菜の隣に腰をおろした。由菜は辰弥に「ありがとう」と囁いた。「いいえ」と辰弥もそれに答えた。
母が辰弥の前にトーストを置くと、辰弥はトーストにオレンジのマーマレードをつけて食べ始めた。
「卒業するってどんな感じ?」
辰弥が尋ねた。
「何かまだ全然実感がわかないんだよね。私、泣いちゃったりするのかな」
自分はまだまだ高校生で、卒業なんてもっと先の様な気がしていた。今日が卒業式だという事実が信じられないでいた。それでも、カレンダーを見れば、今日は3月6日だし、間違いなく自分は今日卒業をするのだ。人ごとのような妙な気分がぬぐい切れずにいた。
辰弥は、駅まで送って行くと言って一緒に家を出た。辰弥は今、私服なので、いつもと違う。自分だけが制服なのも何だか居心地が悪かった。学校へ向かうためにこのいつもの道を歩くのも今日で最後なのだ。だが、どうにもその実感が湧いてこない。
「今日、学校まで迎えに行ってもいいかな?」
家と、駅のちょうど真ん中あたりに差し掛かった時、辰弥がそう言った。
「来てくれるの?」
「由菜が嫌じゃなかったら」
「嫌なわけないじゃん」
それから二人は駅に着くまでなにも言葉を交わさなかった。どんなに沈黙が続こうと、居心地の悪さを感じる事も、不安を感じる事もない、寧ろ辰弥がすぐ隣にいるという事を全身で感じる事が出来る分暖かい気持ちになった。
「送ってくれてありがとう。行って来るね」
「行ってらっしゃい。迎えに行くよ」
辰弥の笑顔に由菜もうんと頷いて答えた。由菜は辰弥の笑顔に見送られて駅の中へ通勤者に紛れて消えて行った。
学校に着き、教室に入ると加絵も隼人も既に来ていた。
「由菜〜、おはよう」
「よう」
「おはよう」
隼人は大学受験も無事に終わり、すっきりした顔をしている。加絵もあんなに寂しそうにしていたのがまるで嘘だったかのように明るい笑顔をしていた。
大の親友が嬉しそうに笑っている。それだけでとても幸せな気分になれた。
卒業式は、滞りなく幕を下ろした。
中学校の時とは違い、合唱なんてものは殆どない。卒業証書授与で名前を呼ばれた時には、感極まって泣く人がちらほら見受けられた。かくいう由菜と加絵もそのうちに入っており、証書を受け取るまでは意地でも泣くまいと我慢していたのだが、壇上に上がり証書を受け取り、戻った時には涙はすでに零れ落ちていた。
証書を持って席に戻る道を歩いている間よみがえるのは、楽しかった高校生活の思い出と、辰弥の事。今日、由菜が証書を受け取っている姿を辰弥に見て欲しかった。
証書授与が終わると無駄に長い校長先生やPTA会長、来賓の祝辞であったが、由菜は高校生活の思い出から離れる事が出来ず、全くと言っていいほど聞いていなかった。
在校生の言葉と卒業生答辞に入ると、これでもう卒業するんだと思うとなんだか堪らなく悲しくなってしまった。
加絵はもうボロボロに泣き崩れていた。卒業生退場の時、母を見つけたが、母もまたハンカチを目元に当てひっそりと涙を流していた。




