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1cmの距離  作者: 海堂莉子
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第78話:バレンタイン

「由菜?」


辰弥の腕を掴んだまま、一人ぼんやりと考えていた為、辰弥が心配そうに由菜を覗き込んでいた。


「何でもないよ」


由菜は急いで、顔を笑顔で繕いそう言った。辰弥に頭を引き寄せられ、辰弥の胸に沈んだ。


「由菜、嘘下手だな」


へへへっと笑ってごまかした。今、口を開いたら泣いてしまいそうだった。

いつからこんなに涙脆くなってしまったんだろう。ほんの些細な事で、すぐに涙が出そうになる。こんなんじゃ、辰弥が心配するだけなのに……。そう思っているのに、心がいう事を聞いてくれない。

どうやら情緒が不安定になっているようだ。涙が零れ落ちないように由菜は、ギュッと目を瞑っていた。息を殺して、ただ涙の波がおさまるまで待った。


ふと、時計を見るともう今日が終わろうとしていた。


「辰弥、そろそろ寝ないと……、明日も学校でしょ」


そうだねと、辰弥は言ったが由菜を放そうとはしなかった。「辰弥?」と由菜がたずねると、辰弥はきゅぅっと一瞬強く由菜を抱きしめると、由菜のおでこに優しいキスを落とした。そして、「おやすみ」と言って、立ち上がった。「おやすみ」由菜も辰弥にそう言った。

辰弥が隣の部屋に戻った後、由菜もベッドに入った。

由菜は休みに入っても以前と同じ時間に起き、辰弥と一緒に朝食を摂っている。

辰弥に頼まれたわけではなく、ただ由菜が出来るだけ辰弥と一緒にいたいだけだ。辰弥も由菜がこうして朝食をともにする事を喜んでくれていた。由菜は、残り僅かな時間を大切にしたかった。



バレンタイン当日。

由菜と加絵はうちの母と共にバレンタインのお菓子を作った。

加絵は、ビターなチョコクッキーを焼き、由菜と母はショコラマドレーヌを焼いた。

加絵は、クッキーを焼き終えると帰って行ったが、帰る前に多分渡せないよと呟き、泣きそうな顔をしているのを由菜は見ていた。

加絵と隼人はこの2週間、会う事も電話もしていなかった。メールも数えるほどで、全くない日もあるようだった。隼人の大学受験の追い込みである事は重々承知しているが、加絵の寂しそうな表情を見ると、何とか会わせてあげられないかと思ってしまう。


午後に入って、加絵からメールが届いた。


『やっぱり私から会いたいとは言えないよ。断られるのが怖い』


加絵の今の表情が手に取るように想像できた。由菜は、このメールを見てしまってはどうしても黙っているわけにはいかなかった。お節介かもしれない、加絵が嫌がるかもしれない。それでも、由菜は動かずにはいれなかった。

携帯のアドレスから隼人にかけた。予備校に行っているかもしれない、その時は仕方ない。だが、出て欲しいと由菜は願った。

耳に届く音楽がぷつっと切れ、隼人の声が聞こえた。


『はい』


「もしもし、隼人?今話しても大丈夫かな?」


『ああ、どうした?』


「うん、あのさ、今日って何の日か知ってる?」


『今日?毎日勉強に明け暮れてると日にちの感覚がなくなってくんだよな……、今日は14日。あっ、バレンタインか』


「そうだよ、加絵さ、隼人勉強頑張ってるからって気遣って自分からは会いたいって言えないんだよ。そりゃさ、あと少しで受験だし、今が一番大事なんだって分かるよ。でも、一日とは言わないから、せめて半日くらい息抜きしても大丈夫なんじゃないかなって思うんだけど……。ごめん、お節介で、でも加絵の寂しそうな顔見ていられなくって……」


『悪いな、手間かけさせて。俺鈍いからあいつの気持ち全然気付いてやれなかった。それに、去年までバレンタインなんて無縁な生活してたからな。今からあいつに電話してみるよ。サンキューな』


「ううん、加絵をよろしくね」


そう言って、由菜は電話を切った。加絵がこれから今日一日、楽しく過ごせたらいいなと由菜は思った。そうなるに違いないっと思ったら、無性に嬉しくなった。



夕方、辰弥はいつもと同じように学校が終わると一目散に帰って来た。


「由菜〜ただいま。会いたかったよ」


「おかえり、辰弥」


由菜の部屋に顔を出した辰弥は、ニコニコと期待の入り混じった表情をしていた。バレンタインに由菜から貰えるか期待90%、不安10%といったところだろう。今年は貰える筈だと思っているだろうが、去年あげなかったので、不安も少なからずあるはずだ。


「着替えておいでよ」


辰弥は、その言葉に少々がっかりという表情を滲ませて、自室へと消えて行った。なんとなく申し訳ない事をしたように思った由菜だったが、とうの辰弥はそんな事にめげずに、着替え終わると下で飲み物を母から受け取ってからまた由菜の部屋に来た。最近は、このパターンが通常化している、辰弥が帰ってくると着替えてから下に降り、飲み物やお菓子を受け取って由菜の部屋に来る。

いつまでも辰弥に、ヤキモキした気分をさせるのはしのびないので、辰弥に今日午前中に作ったショコラマドレーヌを手渡した。

辰弥は、貰った瞬間にぱあっと花が開くように笑顔を作った。


「由菜、ありがとう。開けても良い?」


どうぞと、由菜は照れ臭くって辰弥の顔を見れないものだから、少しぶっきらぼうにそう言った。母は、マドレーヌに合うようにと、紅茶を用意していた。


「うわぁ、うまそ〜。由菜も一緒に食べようよ。これ由菜が作ってくれたの?」


「うん、お母さんと一緒に作ったんだ……」


辰弥は、マドレーヌを一つ由菜に渡すと、いただきますと言って、ぱくりと食べた。すぐに、美味しいよと笑顔を由菜に向けた。辰弥は、喜び過ぎなんじゃないかと思うくらい大袈裟に喜んでくれた。

由菜も辰弥と一緒にマドレーヌを食べたが、午前中に試食した時はとても美味しく感じたのだが、今は味がよく分からない。由菜は、チョコを渡すという事に異常に緊張していた。マドレーヌの味が今一分からなくなるほどに。

本命のチョコを渡すという事が、こんなに緊張するものだとは思ってもいなかった。辰弥にばれたか分らないが、渡した時の手は小刻みに震えていたし、心臓はバクバクいっていた。いつも一緒にいる人なのに、こうも見事に緊張するとは誰が想像しただろう。それに引き替え、貰う側の辰弥は何の緊張も無いみたいで、なんだか憎たらしくさえ思ってしまった。

今日という日に愛を告白する人は、この緊張の比ではないと思うと、全く知らないどこかにいる健気な女の子にエールを送りたい気持ちになった。


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