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1cmの距離  作者: 海堂莉子
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第77話:単純

加絵の予想通り、辰弥は着替えが終わると一旦階下に降りたようだが、また由菜の部屋に戻って来た。手には紅茶とクッキーが乗せられたお盆を持っていた。おそらく、帰って来た時に母にあとで飲み物運んでと頼まれていたのだろう。


「辰弥君って……妙にお盆が似合うね。ウェイターとかばっちり似合いそうだね」


加絵がそう言うので、由菜は辰弥のウェイター姿を想像し、あまりに似合いすぎているので我慢出来ずに吹き出してしまった。


「確かに……」


だよねと、加絵が言い、二人でひとしきり笑った。辰弥は馬鹿にされたと思ったのか、脹れて無口になってしまった。


「違うよ、辰弥。今のは褒めてんの」、「本当に?」


辰弥が疑わしいという目を由菜に向けたが、うんと、頷いて見せるとたちまち機嫌を直した。


「辰弥君、学校はどうだった?」


加絵が辰弥に違う話題を提供した。辰弥もたった今交わされていた会話も忘れて、すぐに次の話題へとスイッチを切り替えた。この時、由菜は辰弥が単純で良かったと心の中で思っていた。


「由菜がいないから全然つまんないです」


心からそう言っているのだが、加絵の前でわざわざそんな事を公言しないで頂きたいというのが由菜の本音だろうか。


「柏木君がいるでしょ?」と、由菜が言うと、


「柏木は楽しいし、友人として好きだけど、由菜とは違うよ。由菜の代わりなんてどこにもいないよ」


しれっと加絵の前でも平気でこんな事を言う。今に始まった事ではないのだが、恥かしくて加絵の方に顔を向けられない。


「やめてよ。そういうの」由菜は、辰弥の方を見ないで、抵抗してみたが、「なんで?」と、辰弥はニタニタと笑いながら、由菜がそう言う理由なんて分かりきっていて敢えて聞いて来るのだ。


「うるさい。恥かしいの」由菜がそう言うと、それを見ていた加絵がくすくす笑い出した。

訝しげに加絵を見やると、その視線に気づくと、


「あぁ、ごめん。由菜ってさ、反応が可愛いんだよね。からかいがいがあるというか、辰弥君の気持ち分かるなと思って」


え〜っと、加絵に不平を訴えると、


「褒めてるのよ。可愛いからついかまいたくなっちゃうんだよね」


加絵がそう言うと、辰弥もその通りと言いたげにしきりに頷いている。そんな事一つで喜んでしまう自分も凄く単純で、辰弥の事とやかく言えないやと苦笑してしまう由菜だった。


「隼人は勉強頑張ってるの?」


「うん、今追い込みだからね。邪魔しちゃ悪いと思ってこっちからはあんまり連絡してない。隼人からメール来たら返事するくらい」


加絵が寂しそうに微笑んでいるので、由菜は加絵が消えてしまうんじゃないかと不安になった。それくらい加絵が儚い存在の様に思えた。


「私、凄い暇だから毎日遊ぼう! ね?」


うん、有難うと、笑う加絵はやっぱり寂しげで、由菜はとても心配になった。

加絵が寂しく思うのも無理はない。今まで教室でいやでも毎日顔を突き合わせていたのだから。同じ教室にいるという事は、毎日会える分とてもいいが、それが終わってしまった時の苦しさは耐えがたい事の様に思う。それは、由菜の場合にも同じことだ。同じ家に住んでいるという事は毎日顔を合わせる。その分離れた時の孤独感は想像するだけで、息が出来ないほど苦しいものだ。

加絵の寂しげな表情が、あと1、2か月後の自分を見ているようで胸が痛くなった。

加絵は隼人に気を使って我慢しているのがありありと窺えた。隼人にとって、今が一番大事な時である事は間違いない。だが、この一番苦しい時にそっと傍にいて励ましてあげられる関係がいいのではないかと由菜は思う。二人の事で出しゃばり過ぎると碌な事にはならないだろうとは思うが、加絵も我慢が過ぎるのではないかと思えてならない。



その日の夜、辰弥は由菜の部屋にいた。

学校には、由菜はいないし、帰って来たら加絵さんがいて二人になれなかったからと言って、辰弥は寝る時間までここにいると部屋に来た時宣言した。

由菜としては、自分からはあまり言わないのだが、昼間会う事が出来ずに寂しい思いをしているのは由菜とて同じなのだ。由菜だって、夜くらい一緒にいたいと思う。でも、辰弥には「全くしょうがないな」と、素直には自分の気持ちは伝える事はしなかった。


「3月14日」


「え?」


「チケットとれたの。今日、午前中にお母さんと行って来た。14日に日本を発つ事に決まったよ」


由菜がそう言うと辰弥はしっかりと由菜を見つめて頷いた。事実を胸に刻むように、自分の中でそれを整理するように何度も頷いた。


「分かった……何曜日?」


「うん、土曜日」


「じゃあ、見送りには必ず行くよ」


うんと、由菜は頷いた。由菜は辰弥の腕を掴んだ。日本を発つ日が決まったことで、本当に自分が留学するのだと思うと不安だった。何に不安を抱いているのか、何に怖がっているのか由菜には分らなかった。

辰弥と離れる事に対してのものなのか、それとも留学についてのものなのか、いやその両方なのかもしれない。何かに縋るように辰弥の腕を強く掴んでいた。

辰弥は由菜の不安を取り除くように優しい微笑みを由菜に向けた。

最近では、旅立つ由菜よりも見送る辰弥の方が強く感じられる。辰弥の為に、留学を延期したいと言っていた事などつい最近であるとはとても思えない。

今では、由菜の方が辰弥と離れるのが怖いという思いは強いのではないか。

辰弥はお祖母さんの死を経て一回りも二回りも強く大きくなったのかもしれない。

由菜の手を握る大きな手は、由菜の知らないうちに頼もしいものに変わっていた。辰弥の支えにならないとと思っていたはずなのに、いつの間にか辰弥に守られ、支えられていた。気付かぬうちに立場は逆転してしまっていたのだ。


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