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1cmの距離  作者: 海堂莉子
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第75話:不安

明日から由菜は卒業式まで学校に来ることはない。

この校舎を見るのも今日とあとは卒業式の行われるその日のみとなった。そう思うと、何か名残惜しい気持ちになってくる。

放課後、由菜と加絵が校舎をぐるりと見て回りたいと言ったので、辰弥と隼人がそれに付き合ってくれた。

校舎の一つ一つを見ながら由菜と加絵は思い出話をしながら笑った。加絵との思い出が他の誰ともより多い為、思い出話は尽きなかった。由菜と加絵両方とも覚えている思い出もたくさんあったが、どちらかが覚えていて、その話を聞いていくうちに記憶がよみがえり、そんな事もあったよねと盛り上がる事もあった。

校内をぐるりと回り、最後に屋上に出た。屋上からは遠くまで見渡せる。ここで加絵と色々話したのを思い出す。辰弥が現れる前は、前日のドラマの話、おしゃれの話、食べ物の話、友人の話、先生の話、勉強の話、進路の話、家族の話などがメインだった。辰弥が来てからは、恋愛相談をしたりすることが、ぐんと増えていた。それから、隼人の話も。くだらない話も深刻な話もここでしていたのだ。

由菜と加絵、隼人の三人はフェンスに寄り掛かり、それぞれ三年間の思い出を反芻してぼんやりとしていた。辰弥にも何か考えるところがあったのだろう、同じようにぼんやりとしていた。


夕方、加絵と隼人と別れた。


「またね、メールするよ」、「うん、またね」、「じゃあな」


加絵とはすぐに会えるだろうけど、ちょっと寂しい。まだ、卒業式でもないのに、涙が出そうになる。


「由菜?もう泣いてるの?まだ別れじゃないでしょ」


辰弥がからかうように由菜を覗き込んでそう言った。


「へへへっ、そうなんだけどさ、なんかあんな風に思い出話をしたりすると、今日が卒業式だったんじゃないかって勘違いしちゃうよね」


由菜は、屋上のあの雰囲気にどうやらあてられてしまったのか、なんだか悲しくてしかたなくなってしまったのだ。まだ全然会えるのに、まるでもう二度と会えなくなってしまうんじゃないかとさえ思ってしまった。

辰弥は、由菜の頭をぽんぽんと軽く叩いた。


「由菜はいつ日本を発つか決めたの?」


もしかしたら、辰弥は屋上でその事をぼんやりと考えていたのではないだろうかとこの時初めて気付いた。辰弥がぼんやりと何かを考えている時、それは由菜の事を考えている時であるといったら自惚れ過ぎだろうか。お祖母さんの事を考えていたって事も考えられるのだが。夕方といっても冬場の日没は早い為、辺りはすでに夜と殆ど変わらないくらいに暗くなっている。辰弥が今どんな表情をしているのか、見上げてみるが読み取る事は出来そうになかった。


「3月6日が卒業式でしょ?その次の週くらいにしようかなって思ってるんだ。明日、お母さんとチケットとりに行って来るね」


努めて、明るい風に話した。今の由菜では、そんな話は涙が出てきてしまいそうだったから。確かに自分で決めた事、自分の夢の為出発するべきなのだでも、辰弥との別れは由菜が想像していた以上に大きなものだったのだ。ここで今泣くわけにはいかない。弱い自分を押し込める為に、明るく笑顔で隠す必要があったのだ。

そんな由菜に気付いたのか、辰弥から強い視線を感じた。


「由菜」と、低い声で呼ばれ、辰弥を見上げると素早く辰弥の唇が由菜の唇に触れた。全く予期していなかったので、びっくりして由菜は口をぽかんとして、無意識に足が止まってしまった。

由菜は、名前を呼ばれたのでその次に何か言葉が投げかけられるのだろうと思っていたのだ、まさかそれが唇だったなんて知る由もなかった。

その場で立ち尽くし、辰弥の背中を見ていた。いつも隣にいるので普段は気付かないが、辰弥は成長期真っ只中なので、身長も肩幅も背中の広さも今までよりも格段と大きくなったように思えた。

1か月前は、半年前は、1年前はあんなにも辰弥は大きかっただろうか。さらに1年後の辰弥は、一体どんな男になっているのだろうか。もしかしたら、全く違う男の人になっているんじゃないかと不安を感じずにはいられなかった。


「由菜?」


由菜が立ち止まってしまっているのに気付いた辰弥は、由菜の名を呼んだ。由菜は俯いたまま動かない。

辰弥が戻って来て、由菜の横に立った。「どうした?」と、優しく声をかける。由菜は、ぶるぶると首を横に振る。「キスしたこと怒ってるの?」また、由菜はぶるぶると横に振る。由菜が辰弥を見上げた時由菜の目から一すじの涙が伝い落ちた。その涙を見て、辰弥ははっとした顔をする。「由菜……」困ったような辰弥の口から由菜の名前が零れ落ちる。


「…ごめん。怖くなったの。どんどん大きくなって、離れて行く辰弥を見てたら……。私が、留学から帰った時に辰弥が、私の知ってる辰弥じゃなかったらどうしようって思ったら、すごく怖くなった……」


「どうしたら由菜は安心できる?」


「分からない……」


由菜は、辰弥の目を見つめた。どうしたらこの言いようもない不安を消す事が出来るのか、由菜には本当に分からなかった。

辰弥は、由菜を強く抱きよせた。人通りの少ない裏通り、二人を見ている者は誰もいない筈。辰弥が抱きしめてくれた時に聞こえる辰弥の心臓の音……、いつも変わらないその音を聞いている内に少し安心する事が出来た。辰弥のこの心臓の音はずっと変わらない。不安になったのは、学校で少し感傷的な気分になったから……。辰弥の温もりが由菜の悲しい心を少しずつ溶かしてくれていた。

由菜は、少し辰弥から体を離し、唇を近付けた。その様子を見て、辰弥もその唇を迎えに来てくれた。唇と唇が出会った時、由菜の不安が小さく小さく萎んでいくのが分った。

今までで一番長いキスだった。触れるだけのキスではあったが、唇から伝わる温もりをいつまでも感じていたかった。恐らくそれは辰弥も同じだったのだろう……。

先程まで雲に隠れていた月が、いつの間にか姿を現し、そんな二人を照らしていた。


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