第74話:チョコレート
翌朝。
由菜はいつもよりほんの少しだけ早く起き、階下へ下りた。
父はもう既に出勤しており、母は由菜と辰弥の目玉焼きを焼いている最中だった。
「おはよう」と、声をかけてテーブルに着くと、
「あら、今日は早いのね」
目玉焼きをお皿に盛り付けながら、母はちらりと由菜の顔を見てそう言った。
「うん、昨日の事、言っておこうと思って。辰弥とちゃんと仲直りしたから…。それから、留学は予定通り行きます。ご迷惑おかけしました」
「そう、良かったんじゃないの。それが一番いいと思うわ」
母は、腕を組んで何度かうんうんと頷いていた。
「それにしても、あんた目、結構腫れてるよ」
由菜は、自分の目に手をあて、「ちょっと鏡で見て来る」と言って立ち上がった。洗面所の鏡で自分の顔を写すと、おばけかと思うくらいに見るも無残な顔が写し出された。はぁ〜と息を吐き、何で昨日ちゃんと冷やさなかったんだろうとがっくりとした。正月早々何日も既に休んでしまっているので、もう休めないし、このまま行くしかないのだが、絶対皆に心配されちゃうんだろうな。「喧嘩でもしたの?」とか、いや確かに喧嘩はしたんだけど、聞かれるのはちょっと鬱陶しいなと朝っぱらから気分が滅入ってしまった。
諦めて、ダイニングに戻ると、辰弥が座って由菜を待っていた。
「由菜、おはよう」
「おはよう」
辰弥は、由菜の顔、恐らく目のあたりをじっと見ていたが、それには敢えて触れずに「ご飯食べよう」と、明るく声をかけた。
由菜も席につき、二人で一緒に「いただきます」と言って、食べ始めた。不思議な事にさっきまでは憂鬱な気分だったのだが、辰弥の声を聞いて、辰弥の隣でご飯を食べている内に、憂鬱な気分さえもどこかに行ってしまったようなそんな気分になって来た。かえって楽しい気分になって来た。多分、辰弥の優しいオーラが由菜の負のオーラを取り除いてくれたんじゃないかと由菜は考えていた。
由菜は学校に登校すると加絵に昨夜の出来事を包み隠さず話して聞かせた。
「そうだね。それで良かったと思うよ」
「嘘〜、昨日と言ってる事違うじゃん」
由菜は少し加絵を睨みつけて、頬を膨らませてそう言った。加絵はくすくす笑ってから話し出した。
「由菜も辰弥君も一度きちんと話すべきだと思ったんだよね。由菜、ずっともやもやしてるみたいだったしさ」
「じゃあ、私の意見に賛成してくれたのはわざとなの?」
由菜は頬を膨らませたまま尋ねた。加絵はその由菜の顔を面白そうに笑ってみている。
「わざとじゃないよ。由菜が自分で決めた事ならどっちにしろ賛成したよ。私はさ、由菜、あんたが望むようにやればいいと思ってるよ。それで、困ったり、泣き言が言いたくなったりしたらいつでも力になるし」
加絵特有のお母さんみたいな優しい声と笑顔でそう言ってくれたので、由菜はとても嬉しく思った。最近どうも涙腺が弱いのか、すぐに涙が出そうになってしまう。目が腫れているのに、ここでさらに泣いたら酷い状態になるのは目に見えていた。
「うううっ、なんか友情が心に沁みるね」
加絵はくすくす笑って、こら泣かないのと優しく叱った。
1月の終わり、高校3年生は、今日を最後に卒業式まで自宅学習となる。
町では、バレンタインデーを控え、デパート等ではチョコレートの売り場が特別に設けられるようになった。それをよそに、受験生は追い込みの時期を迎えていた。
実は、由菜は去年辰弥にチョコレートをあげていなかった。今年は留学前という事もあるので、とびきりの物をあげたいと思っている。手作りにするか、それとも売っている物にするか由菜はそれを今真剣に悩んでいるのだ。
「加絵。隼人にチョコあげるでしょ?」
由菜が、体育の授業中、校庭のトラックを走りながら聞いた。加絵の息が既にあがってきている。
今日の体育はマラソンだ。400mトラックを5周の計2kmを走る事を課せられている。由菜と加絵は今、3周目があと少しで終わるって所まで来ている。
由菜はマラソンが得意なのだが、加絵は大の苦手。由菜の方にはまだまだ十分な余裕がある。
一番を走っている子とはすでに1周以上の差がつけられている。高校3年生にはタイムはあまり関係なくのんびり走っている子が殆どだ。だが、体育会系の部活に入っていた者については、先生に発破をかけられやむなくスペードを上げて走っている。上位を走っている子たちは全部体育会系の部に入っていた。ご苦労様ですと、由菜は心の中で呟いた。
加絵にバレンタインの事を色々と聞いてみたいと思っていたが、隣で肩で息をする加絵を見て、終わるまではとてもじゃないが話は出来なそうだと判断した。
早くもゴールしている子達は、談笑しながら休憩をしている。加絵がその光景を、恨めしそうに眺めている。
やっと、ゴールした由菜と加絵だが、加絵は、はーひーはーひー言っていて、暫くは言葉を出す事は出来ないようだった。
「な…ん…で、最後の日に…マラソン…が…ある…のよ。まっ…た…く」
何とか言葉を出せるようになってきた加絵ではあるが、まだ息が上がっている為所々途切れている。
「3年は、マラソン大会ないだけいいじゃん」
由菜は苦笑交じりにそう言った。
1、2年生は2月の下旬にマラソン大会があり、男子は15km、女子は10kmの距離を走らなければならない。
加絵は行事の中でも、マラソン大会を最も忌み嫌っていたが、由菜は頑張って走った後に保護者の方々が作ってくれた豚汁を食べるのが大好きだったので、案外嫌いじゃなかった。今年は、あの豚汁が食べれないと思うとちょっぴり寂しくさえもあるのだ。外で食べるといつもよりも一段と美味しく感じられるあの豚汁を思い出し、生唾を飲み込んだ。
やっと加絵にしゃべる余裕が出てきたので、さっきの質問を再度してみた。
「隼人、大学受験控えてるから、当日渡せるか分らないんだけど、一応あげるつもりでいるよ。隼人って甘いもの苦手なんだよね。だから、手作りであまり甘くないクッキーを焼こうかなって思ってる。由菜はどうすんの?」
「うん、辰弥は甘いもの好きだと思うんだよね。特に聞いた事はないんだけど、誕生日とかクリスマスのケーキとか美味しそうに食べてたし。私も手作りしたいな。明日から休みで時間はたっぷりあるしね。そうだ、加絵もうちで一緒に作ろうよ」
すっかり元気を取り戻した加絵は、その提案に目を輝かせ、二つ返事で同意した。
由菜にとってはこれが初めての本命のチョコになる。今まで、チョコをあげた事はあるが、それは、例えばクラスの女の子が全員決められた男子に義理チョコをあげるといった義務めいたものにすぎなかった。
由菜は、辰弥にチョコレートをあげる事が出来るのをとても嬉しく思っていた。




