第73話:延期
「そっかぁ、まぁ確かにそりゃあんなに由菜の事大好きなんだもん、行って欲しくないって思うのは当然なんじゃないかな。由菜は?どうしたいと思ってんの?」
加絵は、ちらっと鏡越しに由菜を見てそう言った。二人は、今トイレにいる。手を洗いながら、鏡越しで会話をしているというわけなのだ。
「私も傍にいたいって思ってるよ。留学はさ、時期をずらす事も出来るんじゃないかなって思うんだ。まだ、チケットは買ってないし。手続きをしなくちゃいけなくなるから、親には迷惑かけてしまうけど」
「なんだ、自分の中で答えはもう決まってるんじゃないの。あとは、親と相談するだけじゃん。何を悩んでんの」
加絵は、半ば呆れたようにそう言った。言葉にして、ほぼ自分の中には、残る方向で話が進んでいる事に初めて気付いた。
「そうだよね。でも、何か本当にこれでいいのかなって自分に自信が持てなかったんだ。加絵に話してたら大丈夫なのかなって気がしてきた」
その日の夜、辰弥が風呂に入ったのを見計らって母と対峙した。
父は、接待なのかまだ帰宅していなかった。
「あのさ…、あの…ね。相談があるんだ」
母は、食器を洗っていた手を一旦止め、振り返って「何?」と聞いて来た。
「留学の事なんだけど……。」
母は、手をタオルで拭くと、由菜の正面に座った。「それで?留学がどうした?」
「あの…ね、留学を…さ、少し延期とかって出来ないかな……。あの、ほら、今は辰弥の傍にいてあげたいんだ。ううん…、私が……いたいの」
「そう、辰弥君はその事知ってるの?」
由菜は黙って首を横に振った。
「辰弥君は、そんな事望んでないんじゃないかな」
「うん、そうかもしれない。でも、心配なんだ辰弥の事。今、このままの気持ちで留学しても勉強に集中出来ない気がする。だから、半年だけでいいの」
由菜は、真剣な気持ちで母にその気持を打ち明けた。母は、由菜の顔を見据え少し眉間が寄っていた。
「由菜……、半年延ばして意味があるのかな。確かに今、辰弥君は本当に苦しい時かもしれない。でも、半年延ばして辰弥君はどうなるかな?もっと一緒にいれば、その分もっと離れたくなくなっちゃうんじゃないの?いたずらに時期を延期したりするのは、辰弥君には酷なんじゃないかしら?今よりももっと別れが辛くなるんじゃない?」
由菜は、母の言葉に項垂れた。と、その時、背後でガタっという物音がして由菜が振り返ると、そこには辰弥が立っていた。
「辰弥、今の……」由菜が、そう言うのを遮って、辰弥が言葉を発した。
「なんだよ、それ……。俺の傍にいてあげたい? ふざけんな! 留学は、由菜の夢なんだろう? なんで、そんな事言えんだよ。ずっと前から卒業したら行くって決めてたんだろう? その為に、由菜は誰も好きにならないって決めてたんだろう。俺の為に延期するとか言うなよ。俺がどんな思いで由菜の留学応援してきたと思ってんだ……っざけんな!!! 迷惑だよ、そんなの」
辰弥が、肩で息をしながら、そう一気に捲くし立てた。由菜も母も呆然と辰弥を見ていた。由菜は、辰弥がこんなに怒るとは思ってもみなかった。由菜がした事が間違っていたのだと、辰弥のその言葉から窺えた。由菜は、自分の為辰弥の為にそうしようと思っていた。でも、それは辰弥に取ってみたらありがた迷惑に過ぎなかったのだ。由菜の目からは涙が零れ出ていた。由菜は、立ち上がり辰弥のそばに駆け寄った。
「ごめん。辰弥……。ごめん」
辰弥の両腕を掴んで、何度も何度も由菜は謝罪した。辰弥は、苦しそうに下を見ていた。由菜の謝罪に対して、何の反応を示さない辰弥に、由菜は顔を覗き込むと悔しそうに眼をギュッと瞑っていた。
「ごめん。辰弥……、本当にごめんね」
辰弥が、首を横に振り、「もういい」と、呟いた。そして、踵を返すと自室へと引き上げてしまった。由菜がどうしたらいいのか分らずに母を見ると、母はこくんと頷いた。それを由菜は、追いかけなさいと受け取り、由菜は辰弥の後を追った。
由菜は、辰弥の部屋のドアをノックした。予想通り、辰弥からの返答は返って来ない。由菜は、ドアノブを手にすると、それを回しドアを開けた。辰弥は、いつものように、背中をベッドによりかかり、座っていた。
「辰弥?入ってもいい?」
辰弥は、それにも返事をしてくれなかった。こんな事、今まで一度もなかったので、由菜はどうしたら良いのか途方に暮れた。でも、今ここで逃げ出してしまったら、二人の関係がとんでもなく酷いものになってしまうんじゃないかと思うと、逃げ出す事は絶対に許されないと思った。きちんと辰弥と向き合う必要がある。そう思い、由菜は辰弥の返答を待たずに、部屋に入って行った。
「辰弥。ごめんね。本当に、辰弥があんなに怒るなんて思わなくって。私卒業したら、留学するから。お願い。怒らないで……」
「……」
辰弥は、貝の様に口を閉ざしてしまった。目はどこか一点を見つめている。
「辰弥?私どうしたらいいのかな……。どうしたら辰弥話してくれるの?」
「……」
何もかも閉ざしてしまった辰弥、どうしたらいつもの辰弥に戻ってくれるのか由菜にはとうてい分らなかった。沈黙がとても苦しかった。逃げ出してしまいたいと何度も思った。
「私ね……辰弥の事……好…」
「言うな!!! 今は、まだ言うなよ……。由菜が、留学から帰ってからだって言っただろ」
ずっと黙っていた辰弥が、やっと言った。やっと、由菜を顔を見てくれた。由菜は、たったそれだけの事がなによりも嬉しかった。怒られても、怒鳴られてもそれでも、由菜の方を向いてくれた事が嬉しかった。
「辰弥。ごめんね。ありがとう。私の事本当に考えてくれて、すごく嬉しい。私、行って来る、アメリカに。辰弥に会えなくなるの寂しいけど、我慢する。だから、辰弥も我慢してね」
「俺は……我慢するの嫌いじゃないんだ、それが由菜の事なら。何だって我慢出来る。何だって乗り越えられる。だから、俺の事ばっかり気にしないで欲しい。ばあちゃんの事だって、大丈夫だよ。もう、大分平気なんだ。ばあちゃんの事忘れたりはないけど、ばあちゃんが死んだんだって事がすっと事実として受け止められるようになったんだ。だから、もう大丈夫だ。勿論、まだ思い出して悲しくなったり、泣いてしまったりするかもしれない。でも、きっとそれはばあちゃんが望んでいる事じゃないから。それに俺の心の支えとして由菜っていう存在がいる。それは、由菜が近くにいなくても変わらないんだ。近くにいてもいなくても由菜はずっと傍にいてくれる。あの時の俺には、それが分らなかったんだ。酷い事言ってごめん。本当に留学を延期したりしないで。それが、俺からのお願い」
由菜は、もうすでにぐしゃぐしゃになって泣いていた。涙を拭っても拭っても次から次へと流れて行く。止める事は出来なかった。酷い顔をしているに違いなかった、でももうそれを気にしている余裕するらなかった。
辰弥は、泣いている由菜の頭を優しく何度も撫でた。由菜は、その手を取り、顔に近づけて、また一際大きく泣いた。辰弥はそっと由菜を胸におさめた。辰弥の心臓の音が規則正しく、聞こえてくる。
辰弥も由菜も何も話す事無く、ただ抱きしめあっていた。いつまでたっても泣きやまない由菜の頭を辰弥は撫でたり、たまにとんとんと優しく叩いたりした。
「由菜? 本当は嬉しかったよ。俺の為に、留学を延期したいって言ってくれた事。でも……」
「分かってる。辰弥が言いたい事もう分ってるから……」
うんと、辰弥は頷いた。由菜は、このまま離れたくないと思った。ずっと、こうしていたいと…そう思った。




