第68話:死
「由菜ちゃん、救急車を呼んでくれる。辰弥、あんたはとにかく着替えなさい。そのままで病院に行くつもり?」
辰弥は、言われたままふらふらと立ち上がり部屋に戻った。
由菜は救急車を手配し、お祖母さんの元に戻った。辰弥のふらふらした様子が心配だったので、見に行ってみる。
「辰弥?着替え終わった?」
部屋の中からは何の反応もない。由菜は、ドアを開けて部屋の中を窺った。
辰弥は、ジーンズには着替えていたが、上のパジャマを脱いだきりぼーっとしている。
「辰弥?服着ないと風邪引いちゃうよ」
そう言っても辰弥の反応はなく、ただひたすらどこか一点を凝視している。
救急車が来てしまうので、由菜は辰弥の横に無造作に置いてあったトレーナーを辰弥の頭から被せ、右手、左手と順に袖を通した。
辰弥はされるがままになっており、虚ろな表情をしていた。魂が抜けてしまったように呆然と座り、どこか一点を眺める辰弥に何とか声をかけた。
「辰弥。お祖母さんのとこ行こう」
辰弥の右手を取って由菜が引っ張って行く。
遠くから救急車のサイレンの音が近づいてくる。ここに向かっているそれだろう。
伯母さんが外に出て、救急車に合図をした。
救急隊員が部屋に入り、お祖母さんの体の様子を視察、触察し、脈を計る。
「残念ながら……」
救急隊員の一人が低い声で言葉を紡ぐ。
「すでに息を引き取っています」
その言葉を聞いて、伯母さんが静かに嗚咽を漏らした。
「ばあちゃん、ばあちゃん! 起きろよ! 起きろってば!!! 起きてくれよ……頼むよ」
辰弥が悲痛な声を出し、お祖母さんの肩を掴んで揺り動かす。
伯母さんが泣きながら、辰弥をせいした。辰弥は伯母さんをキッと睨んだが、伯母さんはゆっくりと首を横に振ると、辰弥は大人しくお祖母さんから離れた。
由菜は辰弥の肩を力一杯抱きしめて、涙を堪えようとしたけれど、抵抗空しく涙は次から次へと頬にすじを作り、落ちて行く。
辰弥はこの時涙を流していなかった。ただ、苦痛を耐えるように顔を歪めていた。
お祖母さんは救急車に運ばれ、救急車の中では、由菜と伯母さんの泣き声をサイレンが掻き消していた。
病院に着き、お祖母さんは霊安室へと運ばれ、顔には白い布がかぶされていた。
お祖母さんが寝かされているベッドの横に椅子が置いてあり、由菜の隣には辰弥が座っている。
腰を屈め太腿に両肘をつき、両手を合わせそれを眉間に押しつけていた。
由菜の涙は、今はもう落ち着いていた。
辰弥を支える為に冷静さを取り戻す必要があった。
救急車の中で由菜が泣いてしまった事で辰弥が泣けなかったのではないかと己の行いを悔やんだ。
伯母さんとお祖母さんが由菜に託した想いをきちんと受け止める為に辰弥の傍を決して離れない事を心に誓う。
辰弥は、あれ以来一言も言葉を発していない。
「辰弥? 何か飲み物買ってこようか?」
辰弥は由菜を見る事もなく、先ほどと同じ大勢で目を固く閉じ、ただ黙って首を横に振った。
由菜は、どうしたらいいのか、どう話しかけたらいいのか分らずただそこにいる事しか出来なかった。
これでいいのか…本当に傍にいるだけで、辰弥の支えになれているのか……?
由菜は自問自答を繰り返していた。確実な答えがない問題は由菜には難解だった。
伯母さんは、伯父さんやうちの両親、親戚等に知らせる為に電話をしていた。
伯父さんもうちの両親もすぐにこちらに向かうらしい。
三人は、お祖母さんの傍から誰一人離れようとはしなかった。
看護婦さんから、退出を求められ、仕方なく家に戻った。
家に戻っても辰弥は口を利かず、食べ物も何も口に運ばなかった。
由菜は早々に部屋にこもってしまった辰弥を心配し、おにぎりを作って持って行った。
「辰弥。おにぎり持って来たよ。寝ちゃった?」
辰弥は、掛け布団を頭まで被っている。僅かにいらないという声が聞こえた様に思う。
「ここに置いておくから、お腹空いたら食べてね」
由菜がそう言って部屋から出て行こうとすると、「由菜」と、辰弥に呼ばれて振り返った。
「もう少し、傍にいてくれないかな?」
掛け布団から頭だけ出してそう言った。その顔はとても不安そうで、頼りなかった。由菜は、こくりと頷くと辰弥の傍に戻った。
辰弥の傍に寄ると口の端を軽く上げ僅かながら微笑みを作った。その時由菜は、こんなにも痛そうな微笑みがこの世にあるのだと愕然とした。
「辰弥がねるまでここにずっといるよ」
由菜がそう言うと辰弥はまるで純粋無垢な子供の様にコクンと頷いた。
お祖母さんの家にはベッド(お祖母さんはベッドが嫌いだった)がないので、布団を敷いて寝ている。由菜は、辰弥の傍にちょこんと正座してすわった。辰弥の手を取ると、辰弥は目を閉じた。目を閉じた辰弥を観察し、たった一日で憔悴しやつれたように見える辰弥を見て、マリーアントワネットが死刑の前に一日で美しい髪が真っ白になったという話を思い出していた。
暫くして辰弥が寝息を立て始めると、そっと握っていた手を放し、その場を辞した。
今日のは少し短いです。




