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1cmの距離  作者: 海堂莉子
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第59話:おばあちゃん

その日の夜。

由菜が部屋のベッドによりかかり、本を読んでいると辰弥が顔を出した。少し悲しそうに顔を歪めていた。


「辰弥?どうしたの?」


「ごめん。ちょっとばあちゃんの事考えちゃって……」


辰弥はドアの横に突っ立ったまま、入って来ようとしない。


「入ったら?」と、開いていた本を閉じ、自分の座っていた横に置くとそう辰弥に言った。辰弥は由菜に素直に従いゆっくり歩いて来ると、由菜の隣に座った。


「何考えちゃったの?今の辰弥に私は何をしてあげればいい?話聞く?それとも黙って抱きしめた方がいい?」


辰弥の顔を覗き込むと、悲痛な顔をしていたので由菜は堪らず辰弥を抱きしめた。そうせずにはいられないほどに辰弥は苦しそうだった。辰弥は、黙ったままじっと由菜に抱き締められていた。

やがてゆっくりと由菜から体を離し、そして、ニコッと笑い「充電完了」と言った。明らかにいつもの笑顔じゃなかった。


「辰弥。泣きたかったら泣いてもいいんだよ。泣きたい時は泣く、怒りたい時には怒る、笑いたい時には笑う、嬉しい時には喜ぶ。それって別に恥ずかしい事じゃないでしょ。少なからず私は、格好良い辰弥も、可愛い辰弥も、意地悪な辰弥もどんな辰弥でも幻滅したりしないよ。格好悪くてもいいよ、全部見せて欲しい」


辰弥は驚いた顔をした、そして苦笑したあとゆっくりと話し始めた。


「俺の鹿児島のばあちゃんってさ、小さい時すっごく厳しかったんだ。箸の使い方から言葉遣いから何から何まで厳しく躾けられた。正直、小さい時は怖かったし嫌いだった。あの当時ばあちゃんは、俺の事が嫌いなんだって思ってたよ。でも違った。ばあちゃんは俺の事をいつも一番に考えてくれていたんだ。俺、父さんとばあちゃんが話してるとこ聞いたんだ。多分、父さんが俺に対して厳しすぎるって言ってたんだと思う。ばあちゃんこう言ってた『辰弥は、目に入れても痛くないくらい可愛い。だけど、きちんと教えなきゃならない事は教えないとね。可愛いからといって甘やかし過ぎると碌な大人にならないからね。あの子の為なら悪役にだって喜んでなるさ。でも、あの子は大丈夫だろうよ、私の注意は一生懸命に聞くし、同じ間違いは殆どしない』…俺の事は話すばあちゃんはすごく優しげで、今までのばあちゃん偽物だったんだって思ったんだ。俺、嬉しくってばあちゃんに抱きついたんだ。『おや、ばれちまったね。これで心おきなく優しく出来るね』って笑ってくれた。『でも、辰弥が悪い事したらきちんと叱るよ』ってそうやって言うのだけは、忘れなかったな。それからのばあちゃんは優しくてでも、怒ると怖いって感じ。怒られるのは俺を思っての事なんだって分かったら、叱られるのもいやじゃなくなった。俺は、ばあちゃんが大好きなんだ」


そこで、少し辰弥は、息を吐いた。


「ばあちゃんも、もう大分年だし入院してから、俺なりに覚悟はしていたつもりだったけど、いざ具合が良くない状態だって聞いたら、怖くなった……。俺たちが向こうに行く前に死んじゃったら……とか考えちゃうんだ」


辰弥は、由菜を見て少し笑った。でもその笑顔は、由菜には泣き顔にしか見えなかった。


「大丈夫だよ。私、お祖母さんがどんな状態だとか、どんな病気だとか全然知らないけど、絶対大丈夫。お祖母さん絶対辰弥の事待っててくれるよ。何だろう分かんないけどこれについては自信がある。自信というよりも確信だけど」


そういって由菜はにこっと微笑んだ。これは虚勢でも何でもない、確かに確信として由菜の胸に芽生えているのであった。根拠のない確信、だが、これは間違いない事だと由菜は信じて疑わなかった。

辰弥は、由菜の言葉に下を向いて何か難しい顔で考え込んでしまった。由菜はそんな辰弥の顔を覗き込み、そして、辰弥の唇にそっとくちづけした。由菜から辰弥にキスをするのはこの時が初めてであった。おでこやほっぺたにならあったが、唇には初めてだった。でも、由菜は少しの緊張もしなかった。それが自然で、当り前の事のように考えていた。辰弥はというと、びっくりして唖然と口を半開きにし、そして、みるみる真っ赤な顔になってただ由菜を見つめていた。


「もう一回」


辰弥からこぼれた言葉は、そんな言葉だった。だめと、由菜は言った。


「由菜が傍にいてくれて良かった。何か、今のですっと楽になった気がする。由菜の言う事ならそうかなって信じれる気がする。由菜が大丈夫だっていうなら、俺由菜を信じるよ」


由菜は、頷いて辰弥を見る。先程までの苦しそうな顔は緩み、いつもの笑顔が出てきた。確かに完全に不安が去ったわけではないが、自分を信じてくれた事を嬉しく思った。


「由菜。この先、由菜が留学して距離が離れしてしまったとしても俺は由菜を放さないよ。だから、必ず俺のここに帰って来て。俺由菜がいないと駄目みたいなんだ、だから必ず……」


そう言って辰弥は、由菜の頭を自分の胸に押しつけた。由菜は辰弥に分かるように大きく頷いた。


この胸に戻ってこれたらどんなに良いだろう。戻って来ても良いのかな……

私は…、どんなに離れていてもどんな人が現れても辰弥以外を好きになったりしない。

でも、辰弥を束縛する事は出来ない…。私という存在自体が辰弥を束縛している事になるんじゃないか。

だから、自分からけっして「待っていて」とは言わなかった。言えなかった……


辰弥にここに帰って来てと言って貰えた事は凄く凄くうれしい事だった。だが、もし帰った時にすでに辰弥に他に好きな人が出来てしまったら…? 

待っていて! 私を嫌いにならないで!! 辰弥と離れたくなんかない!!! そう言えたならどんなにか楽か。辰弥も由菜がそう言うのを待ってくれているのかもしれない。


1年後の二人がどうなっているのか、二人の未来は明るいのか、そこには幸せがあるのか、そんな事を考えずにはいられなかった。

辰弥の暖かい胸の中で……。


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