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1cmの距離  作者: 海堂莉子
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第58話:ピアノ再開

「由菜、今日放課後俺ん家寄っていい?ピアノの練習したいんだ」


辰弥がそう言ったのは、登校中歩道を歩いている時だった。

辰弥は、本当ならば、11月からレッスンに復帰する予定であったが、文化祭の準備とピアノの先生の都合で、復帰第1回目のレッスンは、大幅に遅れ12月に食い込んでしまったのだ。この先生には、辰弥が小さい頃からやめるまでずっと教わっていたそうだ。

辰弥はこの先生が小さい時から大好きで、他の先生に変えようかと伯母さんが言った時には猛反対したという話を聞いた事がある。とっても優しいほんわかとした上品な方だそうだ。もう大分お歳のようだがピアノの腕前は全く劣る事を知らない恐ろしい人だと辰弥は言っている。1回目のレッスンで今どれくらい指が動くか見たいから、適当に好きな曲を練習して来てと言われているらしい。

辰弥のピアノを聞くのは久しぶりだった。朝からワクワクしてその日を過ごした。



辰弥は、自分の家に着くと、早速ピアノの練習に取り掛かった。

由菜は、ソファに腰掛け、辰弥の練習を見ていた。本当は近くで見たいのだが、そうすると辰弥の気が散ると思い自粛したのだ。

辰弥は、最初指を動かす練習を始めた。確か『ハノン』という教本だったと思う。ひたすらに指を動かし続けるのだが、それが驚くほど速い。指が攣るんじゃないかと思うぐらい早いのだ。


「うわっ、全然指が動かない。やばいなぁ」


え〜、そんなに速いのにそれでも指が動いてないの?ていうか、それじゃ動いている時の指はどんだけ速いんだろうと、心の中で驚いていた。

10分くらい指の運動をした後、辰弥は『ツェルニー』という楽譜を取り出してきた。ピアノを長くやっていた子はみんなあの教本を持っていた。「バイエルの次の教本なんだけど、つまんないんだよね。本当拷問だよ、拷問」そんな事を言っていたのを思い出した。

だが、辰弥はその『ツェルニー』でさえ、楽しそうに弾いている。先程の、『ハノン』も実はとても楽しそうに弾いていた。そんな所を見ると、辰弥が本当にピアノが好きなんだなってことが分る。

その後は、ショパンやモーツァルトといった由菜でも聞き覚えがあるような曲を次々と弾いていった。どうやら、先生に聞いてもらう曲を選んでいるようだ。

由菜は、辰弥のピアノの音色を聴きながら、うとうとと船を漕ぎ始めた。授業中の編み物は思いのほか神経を使う。編み物初心者の由菜にとって残り少ない期間の中で間違えないように(失敗して一からやり直す時間はもはやない)気をつけ、先生にばれないようにも気を使いしているので、とても疲れるのだ。

寝ないように意識をしても、眠気に勝つのは難しい。辰弥の音色が心地よくて、ほんのり温かい部屋の中で、いつのまにか本当に寝てしまった。


「由菜、由菜。起きて。終わったから、帰ろう」


由菜は揺すぶられて、迷惑そうに薄眼を開けた。が、辰弥の顔を見て、安心してまた寝てしまおうとする。


「こら、起きないとキスしちゃうぞ。いいの?」


由菜は寝ぼけていたが、その声だけははっきりと認識していた。起きなきゃとは思うもののなかなか体が動いてくれない。実は由菜は寝起きが悪いのだ。というよりも、目覚まし時計のあのびりびりというけたたましい音でならばすぐに起きる事が出来るのだが、人の声だとどうしても起きれないのだ。人の声さえも心地よく感じ、眠気を促進してしまうのだ。

辰弥は、キスしちゃうぞなんて言っていたけど、流石にするわけないと侮っていたのだが、由菜の唇にチュッと辰弥の唇が触れたのを感じた時には、一気に目が覚め飛び起きた。


「本当にするかなぁ」


「本当にするよぉ」


もうっと頬を膨らますと、辰弥は可笑しそうに笑って帰ろうと言った。


「それとも続きがしたい?」


辰弥は、ニヤニヤしながら由菜の反応を窺っている。


「続きとかいらないから」


大きな声でそう言うと辰弥は、声を出して笑い出した。辰弥はお腹を抱えながら、冗談なのにとひーひーと変な笑い方をした。


「もういい。一人で帰る」


からかわれた上に、馬鹿にされた由菜はぷりぷりしながら鞄を乱暴につかむと、ずんずんと玄関へ向かった。


「由菜、由菜」


後ろから辰弥の声が聞こえるが、由菜は完全に無視した。辰弥の気配が急に近くなったと思ったら、ガバッと後ろから抱きつかれてしまった。


「捕まえた」


辰弥の声が耳元で聞こえ、先日のベッドで一緒に横になった時の事を思い出し、急に落ち着かなくなった。辰弥の息が耳にかかってくすぐったい。


「放して。もう怒ってないから」


由菜は、もうこれ以上耐えられず少し上擦った声でそう言った。


「いやだ」


辰弥の力がさっきより少し強まり、もはや逃れる術はない。


「放さない」


辰弥の声が少し切羽詰まったように聞こえた。


「辰弥。痛いよ」


辰弥の力が、どんどん強まり息が出来ないほどになっていた。痛いという言葉にはっとしたのか、辰弥の力が不意に弱まり由菜は解放された。辰弥の方を振り向くとそこにはいつもの笑顔があった。

先程のいつもとは違う辰弥の声音が少し気にかかった。だが、それからの辰弥の態度も声もいつもと変わらないものだった。そう、うわべだけは…。


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