第54話:おまじない
5…、4…、3…、2…、1……。
母のノックはいつも用を成していない。音が聞こえたと同時にドアが開く。由菜は大慌てでベッドから降り、毛布を頭からかぶり寝たふりをした。
間一髪と言うところだったように思う。降りてすぐに目をつぶってしまった為、母の表情を読み取る事は出来なかった。
「あら、残念。素敵な状況を期待してたのに」
素敵な状況って何?何を期待していたって言うのさと由菜は心の中で母に問いかけた。
「辰弥君、おはよう。気分はどう?」
母は、全く何もなかったように辰弥に問いかけている。どうやら、由菜がベッドから急いで降りた所は見ていなかったようだ。とにかく、ばれていない事に心底胸を撫で下ろしていた。
「おはようございます。大分良いみたいです。由菜、ここで寝ちゃったんですね。風邪引かなきゃいいけど」
「そうね。夜覗いて見たら、ここで寝てたのよ。何度も起こしたんだけど、ちっとも起きないし、あんまり大きな声を出したら辰弥君まで起こしてしまうと思って、仕方なく毛布をかけておいたの。でも、この子は体だけは強いから、滅多やたらに風邪なんか引かないから大丈夫でしょ。ほら、由菜!いい加減起きなさいよ!!」
由菜は、ほえ?と言う何とも間抜けな声を出し、たった今起きたばっかりな演技をした。
「あれ?もう朝?あれ?お母さん?」
頑張ったと思う。我ながら完璧な寝起きの演技だった。これなら演劇部にだって入れるのではないかと自我自賛した。後で、辰弥に聞いたら、わざとらしくて冷や冷やしたとか言われてしまったが。
「もう、何寝ぼけてんの。朝ご飯は?食べんの?その前に由菜は辰弥君の熱を測って、それから辰弥君のご飯も運んであげて」
「ん〜、ご飯食べる」
そ?じゃあ今言った事よろしくねと言って母は部屋を出て行った。
辰弥の熱を測ると、37度2分の微熱まで下がっていた。
由菜は階下に下り、母にその事を伝えると、
「やっぱり若いと治りも早いわね、良かった良かった」
母は嬉しそうにそう言って、辰弥のお粥を拵えている。
「うん。ねぇ、お母さん、辰弥一人で食べるの可哀想だから、私も上で食べて良いかな?」
「あら、良いんじゃな〜い。そうしてあげなさい」
母はニヤニヤ笑って、由菜を見た。その視線を受け止める事は出来ずに由菜は咄嗟に目を逸らした。母は、全てお見通しっていう目で見るので、目が合っただけで、何もかも自分の気持ちを読み取られてしまいそうで嫌だった。
由菜が辰弥と自分のご飯をお盆に乗せ、部屋に入ると辰弥は文庫本を読んでいた。
「起きてて平気なの?食欲ある?」
由菜がそう聞くと、読みかけの本を脇に置き、由菜に微笑みかけた。
「大丈夫だよ。食欲もすっごいあるし。俺、超腹減ってて死にそうなくらい」
大袈裟だよと、笑い辰弥の食事を膝の上に置いてやる。
「辰弥はお粥だよ」
「え〜、もっとがっつりしたもの食べたいよ」
辰弥は不満を隠そうともせずにそう言った。辰弥の今日の朝食は、卵粥だった。
「文句言わないの。急にそんなの食べたら胃がびっくりしちゃうでしょ」
ちぇっと言ったが、何だかんだ文句を言った割には、とても美味しそうに平らげている。あっという間に平らげた辰弥は薬を飲み、よいしょっと起き上がろうとしていたので、トイレ?と由菜が聞くと、
「ううん、暇だから下行ってテレビでも見ようかなって」
「駄目!今日一日は大人しく寝てないと駄目よ」
由菜が辰弥の前で両手を広げ、とおせんぼをした。
辰弥は、真っ直ぐ由菜の前まで来ると、ぎゅっと強く抱きしめた。こらっと言うと、
「あれ?由菜が手を広げてるから抱きしめて欲しいのかと思って。違った?」
違うよと、辰弥に聞こえないくらい小さな声でそう呟いた。聞こえてしまったら、この腕は離れてしまう。それを恐れて大きな声を出せなかったのだ。
辰弥は、由菜をドキドキさせるのが好きなんだと思う。いつもこうして由菜が赤くなったり、照れたり、挙動不審になっている所を面白そうに見ているのだ。自分ばかりが面白がられるのも癪に障るので、そういう時は、少しこちらからも反撃を試みるのである。
「違わないよ。抱きしめて欲しかったの。辰弥の腕、暖かくて大好きだもん」
辰弥の顔をちらりと見上げると、案の定真っ赤な顔をしていた。相変わらず辰弥は由菜が口にす「好き」という言葉に過剰反応する。由菜は無意識に辰弥のある部分を「辰弥の○○が好き」と言ったりする。
だが、「辰弥が好き」と言う言葉は、やはり怖くて言えなかった。恐らく留学から帰るまで言えないのだろう。辰弥には、申し訳ないと思っている。だが、言えないのだ…。
辰弥の照れて赤くなった顔があまりに可愛かったので、由菜は背伸びをして、辰弥の頬に軽くキスをした。
「風邪が治るおまじないだよ」
「やばい。逆に熱上がってきたかも。やっぱ寝とく」
辰弥はそう言うと、由菜からぱっと離れると、すぐに布団に潜ってしまった。
由菜は、辰弥のあんな表情を見る人間が、自分だけであれば良いとその時考えていた。風邪を引いた時に看病するのも、落ち込んだ時に傍にいるのも、楽しい時を共有するのも誰でもない自分でありたいと深く願っていた。




