第41話:初めての・・・
辰弥の腕にきつく抱きしめられたまま、時が止まってしまったかのように静寂が訪れた。
辰弥も由菜も黙ったまま動こうとしない。長い時間そうしていたようにも、ホンの数分だったのかも分からない。鼓動の音が秒針の様に由菜の耳に届く。秒針にしては速度があまりにも早いのだが。
やがて辰弥が体をゆっくりと離すと、由菜を覗き込んだ。恐らく目一杯赤い顔をしているに違いない。辰弥は、ふっと笑ったかと思うとすぐに真剣な表情に変わった。その表情は、男の子に使うのは、間違っているのかもしれないが、色っぽかった。辰弥のそんな色っぽい顔が徐々に近づいてくる。何をされるのかは考えなくとも分かっていた。動けない・・・いや動かなかった。由菜はそれを待っていたのだ。
辰弥がそれを望んでいたように、由菜もまた望んでいたのかもしれない。
辰弥の唇で、由菜の唇が塞がれた。
実際には、一瞬の出来事でしかなかった。だが、由菜には長い長い時間に感じた。
近づいて来た時と同じようにゆっくりと辰弥の顔が遠ざかって行く。由菜はスローモーションのようなその一連の動作をただただ見ていた。辰弥の表情が次第に緩み、笑顔へと変化していく。優しい笑顔に由菜の顔も次第に緊張がほぐれ緩んでくる。辰弥の顔が真っ赤なのを見て、伝染したかのように由菜の顔もみるみるうちに赤へと変貌して行く。恥ずかしいのは自分だけではないと思うと心なしかホッとする。
「なんか恥ずかしい。」
由菜がおずおずと呟くと、うん、俺もと、辰弥が笑う。
「俺さ、由菜が自分の夢を叶える為に留学する事決めたって聞いた時、正直焦ったんだ。俺には、特別夢がなくて、由菜に置いていかれるんじゃないかって思った。結衣さんにも夢を見つけなって言われて俺、最近ずっと考えてたんだ。俺・・・ピアノの先生とかになれたら良いかなって思うようになったんだ。俺、ピアノ好きだしさ。去年の今日、由菜にピアノ聴いてもらった時、俺ってこんなにピアノが好きだったんだなって気付かされたんだ。ピアノの良さとか楽しさとか教えられたら良いなって思うんだ。」
辰弥は照れ臭そうに、鼻の頭を掻きながら話した。
「うん、うん!すごく、凄く良いと思うよ。辰弥なら絶対なれる。私、辰弥のピアノすんごい大好きだよ。」
そう言った途端、辰弥の顔が更に赤くなってしまった。今までこんなに頬を赤く染めた辰弥を見た事などないのにと、不思議に思い、そしてはたと気付く。辰弥は由菜が口にした『大好き』と言う言葉に反応したようだ。
「あの、ピアノの音色が好きって事だよ。」
由菜は辰弥から目を離す事が出来なかった。
「いや、分かってる。ごめん、ホントあんま見ないで。」
そう言って腕で顔を隠した。そんな辰弥が可愛くて、意地悪をしたくなった。由菜はわざと辰弥の顔を覗き込み、ニコッと笑った。辰弥は耳まで真っ赤になっていた。いつもは、由菜に好き好きと散々言うくせに由菜がちょっと好きって言葉を口にしただけでこの有様である。言い慣れているけど、言われ慣れていないという事だろう。
「私が今まで、どんだけ恥ずかしかったか思い知ったか。」
わざと、偉そうに両手を腰に当ててそう言い放った。そして、二人顔を見合わせて笑った。
10月に入り、あたりはすっかり秋模様へと変わって行った。
風が涼しくなり、制服も衣替えをした。緑は徐々に黄色を帯び少しずつ冬への準備を始めているようだ。
10月半ば。由菜の短大受験が執り行われた。受験と言っても由菜の場合は推薦入試の為、書類審査と面接のみである。書類審査も書類を作成したのは教師であるからして、実質面接を受けるだけであった。そして、無事合格を果たしたのである。やっと受験と言う重い荷物を降ろす事が出来たのだ。
これで、日本を発つまでの約5ヶ月の期間を辰弥との思い出で一杯にしようと意気込んでいたのだ。しかし、意地悪な神様はそうはさせれくれなかった。由菜はまだ知らない。これから大きな嵐が来る事を。
合格祝いと称し、ハンバーガーを片手にMサイズのジュースで乾杯をする二人はまだそれを知る由もない。
ゆっくりと台風の目が二人目掛けて接近しようとしていた。一人の少女が空港に降り立ち、車体の長い高級車に今まさに乗り込んだ。
「俺、来月からピアノのレッスン再開する事にしたんだ。由菜ン家ピアノないだろう?放課後、俺ン家寄って練習しようと思ってるんだ。由菜、受験終わったなら付き合ってくれない?」
ポテトを齧りながら、辰弥が言う。
「邪魔にならない?」
「全然。むしろいて欲しい。」
「うん。一緒に行きたい。辰弥のピアノ沢山聴きたいし。」
辰弥は嬉しそうに頷いた。ハンバーガーを食べ終えた辰弥は由菜の食べる姿を見ていた。由菜はどんなものでも美味しそうに食べる。時に大袈裟なアクション付で。
「そんなに見ないでよ。食べにくいったら。」
由菜は口に含んでいた物をごくりと飲み込んでからそう言った。
「由菜の食べてるとこ、可愛くて好きだなって思ってたんだ。」
止めてよ。と、言って由菜は周囲を気にしてキョロキョロする。廻りにいるのは学校帰りの高校生が殆どで、お喋りに夢中で隣の会話など聞き耳を立ててなどいないようだった。聞かれていなかった事に心底安著し、じろっと辰弥を睨み
「馬鹿」
と、毒づいた。
「俺マゾかな。由菜に馬鹿って言われるの好きみたい。」
辰弥は由菜だけが見る事の出来る特別な笑みをして言う。
「変態」と言うと、「それはちょっと嫌かな。」
さほど嫌がる様子もなく辰弥が言う。
止め処なく出て来る二人の会話を楽しんだ後、二人は店を出て帰路へと着いた。
毎日の当たり前の道を辰弥とこれまた当たり前のように歩く。この当たり前があと5ヶ月後には当たり前じゃなくなる。日本に戻ったらまた同じように歩けるかもしれない。だが、もし辰弥に他に好きな人が出来ていたとしたらもう当たり前には歩けなくなるのだ。今この状況でこんな風に歩けるのはやはり今だけなのだ。再来年の春、二人の関係がどう変わっているのかは分からない。ただ、自分の気持ちが変わる事はないと、これだけは断言できる。
辰弥は由菜の初恋の人なのだ。人よりずっと遅いかもしれない由菜の初恋。
初恋って実らないとか言うよな・・・。
そういえばファーストキスは甘酸っぱいレモンの味とか母が言っていたけど、由菜のそれは涙のちょっとしょっぱい味だった。由菜が泣いていたから仕方がないのだが。
そんな事を考えて一人顔を赤く染めていた。




