第39話:恐怖心
ある日、由菜は町で偶然吉田と会った。その時由菜は中学の時に一番仲の良かった香織という女の子と一緒だった。顔も性格も可愛らしく、学年の中、嫌学校中で一番人気のある女の子であった。
その日三人で近くの喫茶店に入った。由菜にとっては大事な姉の彼氏に久しぶりに会えた事を喜んでいた。しかし、その日を境に結衣への吉田からのラブコールは減っていった。上手くいっているとばかり思っていた由菜は結衣に吉田と連絡がつかないという相談を受け、吉田の通う大学を訪ねた。そして、由菜は見てしまった。吉田と香織が手を繋いで楽しそうに歩いている所を。二人は同時に由菜を見た。そして、息を呑むのが分かった。香織はその場で、泣きながら座り込んだ。由菜はゆっくりと二人に近づいて行った。
「どういう事ですか?」
由菜は吉田を睨みつけた。穴が開くほどに。
「香織ちゃんは悪くない・・・俺が彼女を好きになってしまったんだ。」
吉田は、顔を歪め、辛そうな顔でそう言った。
「違うの、私からなの。」
馬鹿馬鹿しい。この二人は自分達の事しか考えていない。結衣の事など忘れてしまったかのように。悲劇のヒーロー、ヒロイン気取りだ。結衣があんなに苦しそうに、不安になっている時に、自分達は楽しく過ごしていたんだ。それを、見つかった途端に悲劇の主人公面されても、同情を誘うどころか反感が強くなるばかりだ。
「二人の事なんてどうでも良い。私には関係ない。吉田さん。お姉ちゃんはどうなるんですか?けじめすらつけられない人が他の女に手ぇ出してるんじゃねぇ!」
今まで使った事もない汚い言葉を使った。それだけ言い捨てると由菜は踵を返し、走り去った。悔しかった。一番親しいと思っていた友達と、あんなに姉を大事にしていた吉田に由菜は裏切られたのだ。
その後、結衣から吉田とは別れたと聞かされた。結衣が留学してから2ヶ月すらたっていなかった。
香織は一度由菜に話を聞いて欲しいと来た。だが、由菜は話など聞きたくなかった。謝罪などして欲しくなかった。由菜はどうしても香織の事が許せず、香織もあの日以来由菜に話し掛けなくなり、自然と疎遠になった。その後二人がどうなったのかは知らない。
「駄目になったのは遠距離だったからなのか、それともただ単に吉田さんの心変わりだったのか。私には分からない。でも、あの時のお姉ちゃんの苦しそうな、不安そうな声は忘れられないの。いつもは、気丈な人なのに、あの時だけは弱い女の子だった。もしかしたら私のせいだったのかな・・・って思ったりもしたんだ。あの時、二人を引き合わせてしまったのは私なんだから。」
母も姉も由菜のせいじゃないと言ってくれた。慰めなきゃいけないのに、辛いのは結衣の方なのに、結衣は由菜を慰めてくれた。
距離が離れているゆえの不安。連絡の繋がらない不安。直ぐに会う事の出来ない不安。気持ちがきちんと通じない不安。不安が更に不安を大きくし、心が病んでいく。由菜はそんな不安を間近で見て来たのだ。だからこそ、怖い。裏切られるんじゃないかという恐怖。相手を信じられないんじゃないかという恐怖。だから、由菜は誰も好きにならないように殻を被って来たのだ。辰弥に会うまでは・・・。
辰弥が由菜の前に現れてしまった。好きにならずにはいられなかった。遠距離は怖い。由菜は自分の気持ちを伝えずに日本を発とうと決めていた。
「辰弥君だったら絶対大丈夫だよ。」
加絵は由菜の頭をぽんぽんと叩きながらそう言った。
「吉田さんも。そう言われてたんだよ。私もあの人なら大丈夫だって思ってたんだよ。お姉ちゃんも信じてた。怖い、辰弥もそうだったらって思うと怖い・・・。」
加絵は何も言えずただ由菜を見ていた。ほろほろと涙を流す由菜を。
数日後。
由菜は辰弥と学校帰り、駅からの道をゆっくりと歩いていた。由菜は歩くのが遅いので、いつも辰弥がその速度に合わせてくれていた。
「覚えてる?由菜。今日ってさ、俺達が始めてデートした日だよね。」
チラッと辰弥を見たが、辰弥は真っ直ぐ前を見ていた。
「うん。覚えてるよ。雷鳴って死ぬかと思った事とか、辰弥がピアノを弾いてくれた事とか。全部覚えてるよ。」
あの日の事は決して忘れないだろう。由菜の大切な思い出の一つなのだから。辰弥と過ごした日々はかけがえのない大切な思い出だ。どんな些細な事でも、どんなに苦しい事でも、どんなに悲しい事でも忘れる事はないだろう。由菜にとって苦しい思い出ですら思い出す度幸せになれる。それはやはり辰弥とだからなんだろう。特別な人だからだろう・・・。
「ただいま〜。」
家に着くと、母はご馳走を用意していた。
「え?何?何かのお祝いなの?」
母は、自分の娘を馬鹿にしたような目で見て、
「馬鹿ねぇ、あんたは。今日は辰弥君の誕生日じゃないの。」
「う・・・そ?」
くるりと後ろにいた辰弥を振り返り、嬉しそうな顔を見た。
「うそ!」
今度は、大声で同じ言葉を繰り返す。
「本当。」
辰弥が微笑んだ。ぱくぱくと何かを言おうとするが、言葉にならない由菜に、
「お腹減ったよ。着替えに行こう。」
そう言うと、唖然とする由菜の手を取って無理やり階上へと連れて行く。去年のあの日も由菜は何も知らずにおめでとうという言葉も、プレゼントもあげなかった。由菜は辰弥にプレゼントまで貰ったのに。
そっと左手首に輝くブレスレットを見る。も〜何やってんの私!由菜は頭を壁に打ち付けたい衝動に駆られた。終わった事は仕方ない。取り敢えず、ご飯を食べたらきちんと謝ろうと決めて食卓に着いた。
「去年は知らなかったからちゃんとお祝いしてあげられなかったけど、今年は気合い入れて作ったのよ。どうかしら?」
などと、辰弥に話しかける母を見て、教えてくれたって良かったのに・・・と心の中で毒づいて睨みつける。そんな視線に動じる母ではないが。
「はい。すっごい美味しいです。」
辰弥は嬉しそうに返事をした。
「俺、両親共働きだったから、当日に祝って貰った事ないんです。いつもその週の日曜日とかで。だから嬉しいです。有難うございます。」
この言葉に父も母も目頭を熱くしていた。どうやら親心を刺激したらしい。今ではもう、両親にとって辰弥は、自分の息子も同然に思っているようだ。下手すると娘の由菜よりも大事にしているのかもしれない。
由菜は、食事を終え、風呂に入った後、意を決し辰弥の部屋をノックした。




