第13話:辰弥の家
あの時のあの表情が今まさにそこにある。5年前には分からなかったが、それは由菜の何かを決意した時の表情なのだ。あの時、由菜はあの子猫を守ると決意した。そして今、由菜はこの子猫をも守ると決意したのだ。何かを決意した時の力強い瞳、少し厚い唇がこの時ばかりはぎゅっと結ばれる。心なしかいつもより背筋が伸び、少し顔が上を向いている。何かに決闘を申し込むように、強気の由菜の顔。他者が見ればそれはただ気の強い女だと思うかもしれない。しかし辰弥はそれを心底美しいと思い、そして恋に落ちたのだ・・・。
どんよりとした黒い雲がいよいよ二人を包み隠そうと近づいて来ていた。
「由菜。雨が降りそうだから、一先ずうちに行こう。ここからなら、駅に行くより近いから。雨が止んだら由菜ン家に帰れば良いよ。それからその子も洗ってあげられるからね。」
由菜はそう言われて、辰弥の家がこの近辺である事に気付いた。辰弥の家にはあまり行った事がない。幼い頃に1、2度行ったきりだ。しかし由菜の友人がこの辺りに住んでいた為、この辺の土地には詳しいほうだ。ここからだと歩いて15分位だろうか。
由菜は空を見て一瞬怯んだが、
「そうだね。ダッシュで行こう。」
二人は同時に駆け出した。黒い雲は相変わらずついて来る。由菜は泣きそうになりながらも懸命に走っている。走る事5分。二人とも全速力だったので、見事なタイムが出た。
辰弥が暮らしていた家は、少し大きな路地から一本入った住宅街の一角にある。二階建てでちょっとした庭があるのだが、今は誰もいないせいか雑草が生い茂っている。鍵は玄関横の鉢植えの下に隠してあった。定番中の定番な箇所に隠してある為、泥棒に入られても文句は言えないだろう。辰弥が玄関に鍵を差し込み開ける。由菜が家の中に入った途端、ゴロゴロと雷が鳴り始めた。由菜はキャッと小さく悲鳴をあげ、肩を強張らせている。
「大丈夫だよ。一人じゃないから怖くないだろう?」
由菜はそう微笑む辰弥を見ていたら少し安心した。
辰弥のうちに着いた二人は、先ず子猫の体を洗ってやる事にした。辰弥がシャワーで子猫の毛を濡らす。その間、由菜は子猫が逃げ出さないように体をおさえる。今度は由菜がシャンプー
で洗ってやる。辰弥は今度は子猫をおさえる係りである。
夢中で洗っている由菜を見て辰弥は、
「風呂場に二人とも入ると距離がすごく近いね。」
由菜が急いで辰弥を見るとニヤニヤと笑っている。
「馬鹿な事ばっかり言ってないで、シャワー出して。」
由菜は辰弥のこうゆう言葉にも少しは慣れてきた。とは言っても、顔が熱くなるのはどうしようもない。
「はいは〜い。」
シャンプーをした後、由菜はタオルで子猫を拭くと、リビングに連れて行き、そこでドライヤーを使って毛を乾かしていく。最初、子猫はドライヤーの音を怖がっていたのだが、暖かい風が来るので気持ち良くなったのか眠そうに目をしばしばさせている。
「あっ・・・。牛乳買ってくるの忘れちゃった・・・。」
「あ〜。子猫にはミルクだよね。俺、ちょっと買ってくるよ。コンビニすぐそこだし。ただ・・・、由菜は一人で大丈夫?怖くない?5分位で戻って来れると思うけど。」
「う・・・ん。平気。この子いるし・・・。」
本当は一人だと心細いというのが本音だが、子猫の事を考えるとそうも言っていられない。それに、5分位で、雷が急接近するとも考えにくい。
「じゃあ、俺行って来る。待ってろよ。」
辰弥は子猫の頭を優しく撫でた。そして由菜の頭もポンポンと軽く叩いて行った。その仕草がとても年下とは思えなくて、由菜はギクッとした。
辰弥が家を出た後、由菜は引き続き子猫の毛を乾かす事に専念する。雷の音はまだ遠いが、時折光っている。由菜は極力光を見ないように窓から顔を逸らす。それでも視界の端っこから光が見えてはビクッとする。由菜は『辰弥早く帰って来い』と毒づいてみる。子猫は由菜の膝の上で、気持ちよさそうに喉を鳴らしている。
辰弥が帰って来たのは10分ほどたった頃だった。
「由菜。ごめん。風呂場からタオル持って来てくれる。」
玄関を覗くと辰弥がびっしょり濡れて立っていた。どうやら雨が急に降って来たらしい。雨のザーッという音がドアを閉めていても容易に聞くことが出来る。由菜は急いでタオルを取りに行き、辰弥にそれを渡した。
「これお願い。このままだと風邪引きそうだから、シャワー浴びてくるね。」
由菜はタオルと引き換えにコンビニの袋を辰弥から受け取る。
「覗かないでね。」
辰弥はタオルを頭に被せ、それを髪の毛に見立て、わざと女の子みたいな声を出し、由菜にウィンクした。
「バカ。」
辰弥は由菜の言葉など聞こえなかったように風呂場へと消えて行った。まだ濡れていたのか辰弥の足の跡が廊下に残っている。由菜はその足跡を自分の足と重ねてみる。遥かに大きい辰弥の足に由菜は驚きを感じた。
コンビニの袋を覗き込むと牛乳のほかに二人分のジュースと大量のおやつが入っていた。こんなに買って、私を太らすつもりかと由菜は一人ごちた。
早速牛乳を取り出し、食器棚から適当な皿を見つけ、それに注ぐ。少し牛乳が冷た過ぎるようなので、電子レンジで10秒ほど温める。ミルクを子猫の前に置いてやる。初めのうち、恐る恐るお皿に近づいて来たが問題がないと思ったのだろう、ペロペロと舐め始めた。
ミルクを舐める子猫を見て、由菜は優しい心持ちになり、その姿をいつまでも飽きる事無く見ていた・・・。




