後日談:色褪せたアルバム ~私だけがいない、完璧な世界~
一日の終わりを告げるチャイムが、薄汚れたスーパーの店内に虚しく響く。私はタイムカードを押し、重い体を引きずるようにして従業員用の出口から外へ出た。冷たい夜風が、汗で湿った安物の制服を通して肌を刺す。
これが、私の十二年後の姿。桐谷理亞、四十六歳。かつて愛する夫と子供たちに囲まれ、陽光あふれるマイホームで笑っていた私は、もうどこにもいない。あるのは、くたびれたパートタイマーの中年女だけだ。
六畳一間のアパートに帰り着き、電気もつけずに冷蔵庫から取り出した発泡酒を煽る。ぬるい炭酸が喉を通り過ぎていく。床には、コンビニの弁当容器が転がったままだ。片付ける気力も湧かない。
毎月、給料のほとんどは、元夫の蒼さんへ送る慰謝料の分割払いと、最低限の生活費で消えていく。私は、あの日、彼と、そして子供たちから奪った幸せの対価を、こうして払い続けている。
十二年。あまりにも長い時間。
会いたい。一目でいいから、あの子たちに会いたい。詩はもう十八歳。湊は十六歳。どんな青年に、どんな女性に成長しただろう。私のことなど、もう覚えていないかもしれない。ううん、覚えていない方が、あの子たちにとっては幸せなのだろう。
時々、どうしようもない衝動に駆られて、古いアルバムを開くことがある。日に焼けて少し色褪せた写真の中には、幸せそうな「桐谷理亞」がいる。蒼さんの隣で、はにかむように笑っている私。幼い詩と湊を、愛おしそうに抱きしめている私。
この女は、誰なのだろう。まるで、前世の記憶を見ているようだ。この写真の中の幸せを、自分の手で叩き壊したのが、ここにいる私自身だという事実が、未だに信じられない。
黒瀬玄間。あの男のせいで、私の人生は狂った。そう、何度も自分に言い聞かせた。私は被害者だったのだと。でも、心のどこかで分かっている。途中から、私は共犯者になっていた。蒼さんの絶対的な愛情を盾に、危険な関係のスリルを楽しんでいた、醜悪な共犯者に。
後悔は、寄せては返す波のように、私の心を浸し続ける。もし、あの時……。そんな無意味な仮定が、毎晩、私を苛む。
そんなある日のことだった。
いつものように、夕方の混雑するスーパーでレジを打っていた。何の変哲もない、単調な時間。ふと、ガラス張りの自動ドアの向こうに、視線を奪われた。
楽しそうに笑いながら歩いてくる、若い男女の二人組。背の高い、スポーツマンらしい少年と、少し大人びた、知的な雰囲気の美少女。
時が、止まった。
心臓が、鷲掴みにされたように痛む。まさか。そんなはずはない。でも、あの面影は。私が毎晩、夢に見るあの子たちの面影が、そこにあった。
詩……? 湊……?
ああ、大きくなって。詩は、私よりもずっと綺麗になった。湊は、あんなに逞しくなって。蒼さんに、よく似ている。
二人は、私のことなど気づくはずもなく、楽しそうに何かを話している。その笑顔は、太陽のように眩しくて、私の薄汚れた心にはあまりにも刺激が強すぎた。
見ないで。お願いだから、こっちを見ないで。こんな、母親の惨めな姿を。
私は衝動的に身を屈め、レジ台の陰に隠れるようにして顔を伏せた。お客さんから怪訝な顔をされたが、どうでもよかった。ただ、あの子たちの視界から消えたかった。存在しない人間になりたかった。
どれくらいの時間が経っただろうか。恐る恐る顔を上げると、もう二人の姿はどこにもなかった。幻だったのかもしれない。そう思いたかった。でも、胸の激しい動悸が、あれが現実だったと告げている。
その夜、アパートに帰った私は、子供のように声を上げて泣いた。
嬉しかった。あの子たちが、あんなに立派に、幸せそうに成長してくれていたことが、心の底から嬉しかった。
そして、絶望した。あの輝くような二人の隣に立つ資格が、私にはもうないのだという事実を、骨の髄まで思い知らされて。
私は、もう彼らの人生における登場人物ですらない。ただの、過去の染み。忘れ去られるべき、汚点なのだ。
それから数日間、私はまるで亡霊のように街を彷徨った。仕事を休み、食事も喉を通らない。ただ、もう一度だけ、あの子たちの姿が見たい。その一心で、かつて住んでいた家の周辺を、ストーカーのようにうろついた。自分の行動が、いかに醜悪で身勝手か、分かっていながら、止めることができなかった。
そして、見てしまった。
公園のそばの道を、三人で歩く、かつての家族の姿を。
私の隣を歩いていたはずの蒼さんは、少し白髪が増えていたけれど、穏やかな父親の顔で、二人の子供たちを見守っていた。詩が何かを話すと、蒼さんと湊が笑う。湊がふざけると、詩が呆れたように、でも嬉しそうに弟の背中を叩く。
そこに広がっていたのは、完璧な「家族」の風景だった。
私が夢にまで見た、幸せな家庭。でも、その中心にいるべき私は、いない。そして、私がいないからこそ、その風景は完璧なのだ。
涙が、静かに頬を伝った。
ああ、そうか。
私は、とんでもない勘違いをしていた。私が償うべきは、慰謝料を払い続けることでも、こうして孤独に苦しむことでもなかった。
私がすべきだった唯一の償いは、彼らの前から完全に消え去り、その幸せを永遠に乱さないことだったのだ。
「会いたい」「謝りたい」という私の願いは、彼らの幸せな世界を脅かす、最も身勝手で、最も残酷なエゴでしかなかった。それを、今、ようやく悟った。
よかった。
本当によかった。
あの子たちは、幸せなんだ。私が与えられなかった幸せを、蒼さんは、たった一人で、見事に与え続けてきたんだ。
私は、彼らに背を向けた。そして、一度も振り返らずに、歩き出した。自分のいるべき場所へ。光の当たらない、この薄暗いアパートへ。
もう、二度と彼らの前に現れることはないだろう。
古いアルバムも、もう開くことはない。
私の心の中にだけ存在する、幸せだった家族の記憶を、今日、この手で完全に葬り去る。
これからの私の人生は、ただ、息を潜めて生きるだけの日々だ。彼らが築いた完璧な世界を、遠くから汚すことのないように。それが、私がこの世でできる、唯一にして最後の、母親としての役割なのだから。
アパートの冷たいドアノブに手をかける。
私の長い、長いお出かけは、まだ終わらない。ううん、きっと、死ぬまで終わることはないのだろう。




