後日談:僕たちとパパの、十二年戦争
【桐谷 詩 視点】
合格通知の四文字を、私は何度見返しただろう。第一志望の大学。推薦入試だったから結果は早く、まだ冬の寒さが残る二月のことだった。
「やった……!」
リビングで一人、思わずガッツポーズをする。すぐにでも伝えたい相手は二人。一人は部活帰りの弟。そしてもう一人は、世界で一番尊敬する人。
玄関のドアが開く音と同時に、私はリビングを飛び出した。
「パパ! おかえり!」
「おお、詩か。ただいま。ずいぶん機嫌がいいじゃないか」
スーツ姿のパパ――桐谷蒼は、少し疲れた顔をしながらも、優しく目を細めた。十二年前、彼がたった一人で私と弟を育てると決めてから、その顔には少しずつ皺が増えた。白髪も、少し混じるようになった。四十七歳。世間ではまだ若いはずなのに、彼の背負ってきたものの重さを、その背中は物語っている。
「あのね、大学、受かった!」
「本当か!?」
パパの顔が、ぱあっと明るくなる。彼は私を力強く抱きしめてくれた。大きくて、安心する、大好きなパパの腕。
「すごいじゃないか、詩! よく頑張ったな! 本当におめでとう!」
「うん……! ありがとう!」
その夜、少し遅れて帰ってきた弟の湊も一緒に、ささやかなお祝いをした。パパが腕によりをかけて作ったローストビーフと、私の大好きなグラタン。十六歳になった湊は、照れくさそうに「まあ、やるじゃん、姉貴」なんて言いながら、誰よりも嬉しそうにしていた。
「よし、詩の合格祝いと、湊の部活の新人戦勝利祝いを兼ねて、今度の週末、どこか美味いものでも食べに行くか!」
パパの提案に、私と湊は声を上げて喜んだ。
これが、私たちの日常。母がいないことを除けば、どこにでもある普通の家族。ううん、母がいないからこそ、私たちは人一倍、強い絆で結ばれているのかもしれない。
私と湊には、母の記憶がほとんどない。私が六歳、湊が四歳の時に、家を出て行ったと聞いている。パパは、私たちに「ママは、少し遠いところにお出かけしたんだ」とだけ説明した。子供心に、それが永遠の別れなのだと理解するまでに、そう時間はかからなかった。
周りの友達の家にいる「お母さん」という存在を、羨ましいと思わなかったと言えば嘘になる。でも、パパは、母親の分まで、ううん、それ以上に私たちを愛してくれた。運動会も、授業参観も、一度だって欠かしたことはない。慣れない手つきで作ってくれたお弁当は、少しだけしょっぱかったけど、世界で一番美味しかった。
だから、私たちは寂しくなかった。パパがいれば、それで十分だった。
ただ、心のどこかに、小さな棘のように引っかかり続けていた疑問はあった。どうして、ママはいなくなったんだろう、と。
その答えの片鱗に、私たちが触れることになったのは、合格祝いの外食に出かけた、その帰り道のことだった。
【桐谷 湊 視点】
「いやー、食った食った。姉貴の祝いなのに、俺が一番食ったかもな」
「あんたはいつもでしょ。少しは遠慮しなさいよ」
駅からの帰り道、姉の詩と軽口を叩き合いながら歩く。パパは少し先を、満足そうな顔で歩いていた。焼き肉、最高だったな。これで明日の練習も頑張れる。
そんなことを考えていた時だった。ふと、駅前のスーパーのガラス張りの壁の向こうで、カートを整理している店員の女性が目に入った。年の頃は、パパと同じくらいだろうか。ひどく疲れた顔で、生気がなく、その背中は見ているこちらが辛くなるほど寂しそうに見えた。
なんで、あんな人に目が行ったんだろう。自分でも分からない。でも、なぜか目が離せなかった。
「……湊? どうかしたの、急に黙って」
詩が、私の視線の先を追う。そして、彼女もまた、その女性を見た瞬間に息を呑んだのが分かった。
「……あの人……」
詩が、何かを呟く。その女性は、私たちの視線に気づくこともなく、ただ黙々と作業を続けている。安っぽいパートの制服。白髪の混じった、手入れされていない髪。深く刻まれたほうれい線。
でも、その顔の輪郭のどこかに、古いアルバムで見たことのある、若い女性の面影が重なった。私たちの、母親の――。
「……行こう」
詩が、私の腕をぐいっと引っ張った。私は、何も言えずに姉に従った。パパに気づかれないように、私たちは足早にその場を離れた。
家に帰っても、口の中に残っているはずの焼き肉の味は、もうどこかへ消え失せていた。詩も私も、無言だった。さっきまでのはしゃぎっぷりが嘘のようだ。
「お二人さん、どうした? 疲れたか?」
リビングでテレビを見ているパパが、不思議そうに声をかけてくる。
「ううん、別に。ちょっと食べ過ぎただけ」
詩が、無理に笑顔を作って答える。私も、「そんなとこ」と短く返事をして、自分の部屋に閉じこもった。
ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。さっきの女性の姿が、まぶたの裏に焼き付いて離れない。もし、あの人が本当に俺たちの母親だとしたら? パパが言っていた「遠くへお出かけ」っていうのは、嘘だったのか? あの人は、あんなに近くで、あんなにみすぼらしい生活をしていたのか?
もしそうだとしたら、なぜ? どうしてパパは、私たちに嘘を?
その夜、詩がそっと私の部屋に入ってきた。
「湊、起きてる?」
「……まあな」
「さっきの人……どう思う?」
姉の声は、震えていた。
「分かんねえよ。でも……」
言葉が続かない。でも、詩も同じことを考えているはずだ。
「パパに、聞いてみようか」
「……やめとけよ。パパ、傷つくだろ」
そうだ。パパは、俺たちの前から母親の話題を意図的に避けてきた。俺たちが聞いても、いつも悲しそうに笑って誤魔化すだけだった。今更、俺たちがその傷をえぐるようなことをしていいはずがない。
「でも……」詩は続けた。「でも、私たち、もう子供じゃないよ。知る権利くらい、あるんじゃないかな。それに、パパが一人で抱え込んでいるものがあるなら、私たちも一緒に背負いたい」
姉の言葉は、まっすぐだった。そうだ、その通りだ。俺たちはもう、守られているだけの子供じゃない。この十二年間、パパが守ってくれた分、今度は俺たちがパパを支える番なんだ。
「……分かった。明日、話そう。二人で」
私たちは、固く頷き合った。
【桐谷 蒼 視点】
翌日の日曜日。昼食を終えたリビングで、私はコーヒーを飲みながら新聞に目を通していた。昨日の夜から、子供たちの様子が少しおかしいのが気になっていた。何か、悩んでいるような、そんな雰囲気。
「パパ」
改まった詩の声に、私は新聞から顔を上げた。隣には、湊も緊張した面持ちで座っている。
「なんだ、二人して。真剣な顔して」
努めて明るく言う私に、詩は深呼吸を一つしてから、まっすぐに私の目を見て言った。
「お母さんのこと、本当のことを教えてください」
その言葉に、私の心臓がどきりと音を立てた。ついに、この日が来たか。いつかは来ると覚悟していた、審判の日が。
「どうして、急にそんなことを……」
「昨日、見たんです。駅前のスーパーで働いている、お母さんらしき人を。すごく、不幸そうでした。パパの言ってた話と、違うから……。私たちは、本当のことを知りたいんです」
そうか、見られてしまったのか。私は、ゆっくりと目を閉じた。もう、誤魔化しは効かない。そして、この子たちはもう、真実を受け止められるだけの強さを持っている。
私は、コーヒーカップをテーブルに置くと、二人に向き直った。
「……分かった。全部、話そう。長くなるぞ」
私は、十二年前にこの家で起こったことのすべてを、包み隠さず話した。理亞の、私と出会う前からの裏切り。それを知った私の絶望。そして、私が仕掛けた、冷徹な復讐のすべて。彼女が自ら出て行ったのではなく、私がこの手で追い出したのだという、残酷な真実まで。
子供たちを傷つけたくなくて、これまでずっと隠してきた、私の心の最も醜い部分。それを、私は静かに、淡々と語った。
話が終わる頃には、窓の外はオレンジ色の夕日に染まっていた。リビングには、重い沈黙が流れる。詩も湊も、俯いたまま、何も言わない。当然だろう。信じていた父親が、実は冷酷な復讐者だったのだ。優しい母親は、自分たちを捨てた裏切り者だったのだ。彼らが築き上げてきた世界の土台が、根底から覆された瞬間なのだから。
どれくらいの時間が経っただろうか。先に口を開いたのは、湊だった。
「……そっか。大変だったんだな、父さん」
顔を上げた湊の目に、私への軽蔑の色はなかった。そこにあったのは、ただ、父を気遣う、深い労りの色だった。
「一人で、ずっと……。そんなこと、抱えてたのかよ。水臭いじゃんか」
ぶっきらぼうな、でも、どうしようもなく優しい言葉。私の目頭が、熱くなる。
続いて、詩が静かに顔を上げた。彼女の頬には、一筋の涙が伝っていた。
「……辛かったね、パパ」
その言葉に、私の堪えていたものが、決壊しそうになる。
「私は、お母さんに会いたいとは思わない。だって、その人がいなくなってから始まった、この三人での生活が、私の『家族』のすべてだから。パパと、湊と、私。この十二年間が、私たちのすべてだよ」
詩は、涙を拭うと、はっきりとそう言った。
「そうだな」と湊が頷く。「俺もだ。俺の家族は、パパと姉ちゃんの三人だけだ。昔も、今も、これからも」
二人の言葉が、十二年間、私の心の奥底に突き刺さっていた氷の棘を、ゆっくりと溶かしていく。そうだ、私は間違っていなかった。この子たちを守るために、私は戦ったんだ。そして、この子たちは、私が思っていた以上に、強く、優しく育ってくれていた。
「……ありがとう」
絞り出した声は、震えていた。
「ありがとう、詩、湊。お前たちは、パパの誇りだ」
その日、私たちは、本当の意味で一つの家族になった。過去の亡霊は、完全に祓われたのだ。
瓦礫の上に築いた僕たちの城は、十二年の時を経て、どんな嵐にも揺るがない、本物の城になっていた。
「さて、と」と私が立ち上がる。「そろそろ、腹が減らないか? 今夜は、パパ特製のカレーにしよう」
「いいね!」と湊が笑う。
「私、手伝うよ!」と詩が立ち上がる。
いつもと変わらない、週末の夕暮れ。
でも、その光景は、昨日までとは比べ物にならないくらい、温かく、そして輝いて見えた。
私の、長かった戦争は、こうして、最高の形で終わりを告げたのだった。




