後日談:復讐者の残骸 ~かつての王は、最後のプライドさえも踏み砕かれる~
理亞がこの家から去り、黒瀬玄間が社会から消えてから、一年という月日が流れた。
季節は巡り、庭のハナミズキが再び可憐な花を咲かせている。僕の生活は、詩と湊、この二人の子供たちを中心に回っていた。朝は二人を起こし、朝食を食べさせ、詩を小学校へ、湊を保育園へ送り出す。それから会社へ向かい、定時きっかりに仕事を終えると、今度は二人を迎えに行き、夕食の準備をし、風呂に入れ、寝かしつける。
正直に言って、目まぐるしく、大変な毎日だ。会社では、黒瀬の後任というわけではないが、チームリーダーとしての責任も増した。仕事と育児の両立は、僕が想像していた以上に過酷だった。
それでも、僕の心は不思議なほどに穏やかだった。偽りの愛と欺瞞に満ちていた頃と比べれば、今のこの忙しなくも誠実な日々は、何物にも代えがたい宝物だった。
「パパ、今日のご飯なあに?」
「今日は湊の好きなハンバーグだぞ」
「やったー!」
湊の屈託のない笑顔。詩が学校であったことを、一生懸命に話してくれる時間。失ったものは大きかったが、僕が守り抜いたこの温かい日常が、僕の心の空洞を少しずつ埋めてくれていた。
理亞からは、時折弁護士を通じて手紙が届いたが、僕は一度も封を開けずに突き返していた。彼女は慰謝料を分割で支払い続けている。ただ、それだけの関係だ。
すべては、過去になった。そう、思っていた。
あの男が、再び僕の前に姿を現すまでは。
それは、よく晴れた土曜日の午後だった。僕が子供たちと庭でボール遊びをしていると、門扉の前に一人の男が立っているのが見えた。みすぼらしいジャージ姿、伸び放題の無精髭、虚ろな目。一年という月日が、かつて自信に満ち溢れていたエリート部長の面影を、跡形もなく消し去っていた。
黒瀬玄間だった。
彼の姿を認めた瞬間、僕の体は警戒態勢に入った。子供たちをさりげなく自分の背後にかばい、静かに男を見据える。
「……何の用だ、黒瀬」
僕の低い声に、黒瀬はにやりと歪んだ笑みを浮かべた。その目は濁り、明らかに正気ではなかった。酒の匂いが、風に乗って微かに漂ってくる。
「よう、桐谷。ずいぶんと幸せそうじゃねえか。俺のおかげで、家庭円満ってか?」
「帰れ。二度とその汚い顔を俺たちに見せるな」
「つれねえこと言うなよ。お前には、いろいろと『お礼』をしに来たんだからよ」
黒瀬はよろめきながら門扉を開け、庭に侵入してきた。その手には、何か鈍く光るものが握られている。カッターナイフか。僕の全身に緊張が走る。
「詩、湊。おうちの中に入ってなさい。すぐにパパも行くから」
僕のただならぬ気配を感じ取ったのか、子供たちは素直に頷き、リビングへと駆け込んでいった。僕は、二人が家の中に入り、鍵をかける音を確認してから、改めて黒瀬と対峙した。
「子供たちの前で、醜態を晒すのはやめろ。お前にも、まだ人の心があるのならな」
「うるせえ! 俺の人生をめちゃくちゃにしやがって! お前さえいなければ……! お前さえ、おとなしく騙されていれば、俺はまだ王様でいられたんだ!」
黒瀬が、狂ったように叫びながら突進してくる。素人の、酒に酔った動きだ。僕は冷静にその動きを見極め、彼が振りかざした腕を掴むと、体をひねって地面に叩きつけた。僕と彼とでは、鍛え方が違う。学生時代から続けている柔道の経験が、こんな形で役立つとはな。
「ぐっ……!」
地面に背中を打ち付けられ、黒瀬が苦悶の声を上げる。手から滑り落ちたカッターナイフを、僕は足で遠くへ蹴り飛ばした。
「まだ分からないのか。お前は、もう俺には勝てないんだよ。どの舞台でもな」
僕が冷たく言い放つと、黒瀬は地面に這いつくばったまま、憎悪に満ちた目で僕を睨みつけた。
「ふざけるな……! 俺は、こんなところでは終わらねえ……! お前も、道連れにしてやる……!」
彼はそう言うと、懐からスマートフォンを取り出し、震える指で操作し始めた。そして、その画面を僕に見せつける。
「これを見ろ! これさえあれば、俺はまだやり直せる……!」
画面に映し出されていたのは、動画だった。薄暗いホテルの室内で、理亞が卑猥な言葉を口にしている。おそらく、俺が彼女のSNSから見つけ出したものと同じ、過去の動画の一つだろう。
「この動画を、ネットにばら撒いてやる。そうすりゃ、お前の可愛い子供たちも、学校でなんて言われるかな? 『お前の母親、ポルノ女優なんだってな』って、いじめられるんだろうなあ!」
下劣極まりない脅迫。だが、その言葉を聞いても、僕の心は不思議なほどに凪いでいた。なぜなら、僕は、こうなることさえも予測していたからだ。黒瀬玄間という男は、ここまで落ちぶれてもなお、他者を傷つけることでしか自分の存在価値を見出せない、哀れな人間なのだと。
「……それが、お前の最後の切り札か」
「そうだ! さあ、どうする? 俺に土下座して、慰謝料を払うなら、見逃してやってもいいぜ?」
勝利を確信した黒瀬が、下卑た笑みを浮かべる。僕は静かに息を吐くと、自分のスマートフォンを取り出した。そして、一つのアプリを起動させる。
「お前は、本当に何も分かっていないんだな」
僕は、スマホの画面を黒瀬に見せた。そこに表示されていたのは、リアルタイムで録画・録音されていることを示す赤いランプと、『通報』というボタンだった。
「俺の家の敷地内は、すべて監視カメラの作動範囲内だ。お前がここに現れた瞬間から、お前の言動はすべて記録されている。不法侵入、脅迫、そして傷害未遂。その映像と音声は、リアルタイムで警備会社と警察のサーバーに転送済みだ」
黒瀬の顔から、急速に血の気が引いていく。
「な……なんだと……?」
「そして、お前が今、手にしているその動画データだが」
僕は言葉を続けた。
「お前がそれをネットにばら撒いた瞬間、リベンジポルノ防止法違反で即座に逮捕される。俺が雇ったサイバーセキュリティの専門チームが、24時間体制でお前の動きを監視しているからな。お前がデータをアップロードした瞬間に発信者情報が特定され、お前は社会的に二度と立ち直れないほどの重罪犯になる。それでも、やるか?」
黒瀬は、完全に言葉を失っていた。彼の唯一の武器だと思っていたものは、実は、彼自身の首を絞めるための、より強力な罠だったのだ。
彼の震える手から、スマートフォンが滑り落ちた。その顔には、怒りも憎悪も、もう残ってはいなかった。ただ、すべてを失った人間の、抜け殻のような絶望だけが浮かんでいた。
「もういいだろう。お前のゲームは、完全に終わりだ」
僕がそう言い渡した直後、門扉の外でサイレンの音が聞こえ始めた。僕がボタンを押すまでもなく、敷地内への不法侵入を検知した警備システムが、自動で通報してくれていたのだ。
数人の警察官が、あっという間に黒瀬を取り囲む。彼は、何一つ抵抗することなく、力なく両腕を差し出した。連行されていく彼の背中は、あまりにも小さく、哀れだった。
彼が落としたスマートフォンを、僕は拾い上げた。そして、その場で初期化し、データを完全に消去する。念のため、物理的に破壊しておくべきだろう。
すべての騒ぎが終わり、僕は家の中に戻った。リビングのドアを開けると、詩と湊が、不安そうな顔で僕に駆け寄ってきた。
「パパ、大丈夫……?」
「ああ、大丈夫だ。悪い人が来たけど、もう警察の人が連れて行ってくれたから、安心しろ」
僕は二人を力強く抱きしめた。この温もり。この重み。これこそが、僕が守り抜かなければならないすべてだ。
「さあ、もう大丈夫だ。遊びの続きをしようか」
僕は、何事もなかったかのように微笑んだ。子供たちの心に、今日の出来事が暗い影を落とさないように。
黒瀬玄間は、今回の件で実刑判決を受け、刑務所に収監されたと、後日弁護士から連絡があった。彼が再び僕たちの前に現れることは、もう二度とないだろう。彼は、自らが振りかざした刃によって、最後のプライドさえも完全に踏み砕かれ、文字通り社会から隔離されたのだ。
僕の復讐は、本当に終わった。
窓の外では、子供たちの笑い声が響いている。僕はその声を聞きながら、静かに目を閉じた。
瓦礫の上に築いた僕たちの新しい日常は、まだ始まったばかりだ。過去の亡霊に怯える必要は、もうどこにもない。僕たちは、前だけを向いて生きていく。
この、かけがえのない光を守り抜くために。




