第四話 瓦礫の玉座、そして独りのエピローグ
リビングの床に崩れ落ち、嗚咽を漏らす理亞を、僕はただ無感情に見下ろしていた。先ほどまでのヒステリックな電話の怒声が嘘のように、家の中は静まり返っている。二階の子供部屋からは、何も知らない天使たちの健やかな寝息だけが聞こえてきていた。この静寂が、僕たちの偽りの家庭に下された、最後の審判の鐘の音のように響いた。
「どうして……どうしてこんなことに……」
ようやく絞り出した理亞の声は、絶望の色に染まっていた。彼女の視線は宙を彷徨い、まだ現実を受け止めきれていないようだった。彼女の中では、この悲劇の元凶は、すべてを暴露した黒瀬の妻なのだろう。
僕はゆっくりとソファに腰を下ろし、冷え切った声で、そのささやかな幻想を打ち砕いた。
「どうして、だと? おかしなことを聞くな。お前が、黒瀬玄間と十年以上も不貞を続けてきたからだろう」
僕の言葉に、理亞の肩がびくりと跳ねた。堰を切ったようにしゃくりあげていた嗚咽が、一瞬だけ止まる。彼女は信じられないといった表情で、涙に濡れた顔を上げた。
「……な、にを……言ってるの……? 十年……? 私は、ただ、あの人にそそのかされて……」
「まだそんな嘘を吐くのか」
僕は吐き捨てるように言った。そして、ポケットから自分のスマートフォンを取り出し、画面を操作する。バックアップしておいた、あの秘密のSNSアカウントのページを開き、彼女の目の前に突きつけた。
「これは、何だ?」
画面に映し出されていたのは、僕と理亞が結婚するよりもずっと前の日付の、彼女と黒瀬の親密なやり取りだった。理亞の顔から、急速に血の気が引いていくのが分かった。その瞳は、ありえないものを見たかのように大きく見開かれている。
「これだけじゃない。お前たちの、醜い情事の記録はすべてここにある」
僕は指で画面をスワイプし、次々と証拠を見せつけていく。ホテルの前で撮られたツーショット。僕への悪口で盛り上がるメッセージ。僕がプレゼントした覚えのないネックレスを身につけ、黒瀬に感謝を伝える動画。
一つ見せるごとに、理亞の体から力が抜けていく。彼女はもはや、弁明の言葉すら見つけられないようだった。
「なんで……なんで蒼が、それを……」
「お前が僕の妻だからだよ。愛していたからだ。だから、お前の些細な変化にも気づいてしまった。その結果が、これだ」
僕はスマホをテーブルに置くと、今度は一枚の写真を彼女の足元に滑らせた。興信所が撮影した、つい先日の金曜日、理亞と黒瀬がラブホテルから出てくるところを捉えた鮮明な写真だ。
「最後の最後まで、僕を裏切り続けていたんだな。僕がどんな気持ちで、この数週間を過ごしてきたか、お前には想像もつかないだろう」
僕の声には、もう怒りも悲しみもなかった。ただ、底なしの虚無感が広がっているだけだった。
「ごめんなさい……ごめんなさい……!」
ついに、理亞は観念した。床に額をこすりつけ、子供のように泣きじゃくりながら、すべてを告白し始めた。
「最初は……最初は本当に、無理やりだったの……! 会社の飲み会の後、泥酔した私を、あの人がホテルに……。抵抗したけど、敵わなくて……」
その告白は、僕がログから読み取った通りの内容だった。
「後日、その時の写真を見せられて、脅されたの……。『家族にバラされたくなかったら言うことを聞け』って……。怖くて、逆らえなかった……」
「……」
「何度も、何度も……断れなかった。そうしているうちに、だんだん感覚が麻痺してきて……。怖い、悔しいって思う気持ちと、どこかで諦めてしまう気持ちが混ざって……。いつしか、罪悪感も薄れて……あの人との時間が、苦痛だけじゃなくなってしまったの……」
理亞は顔を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で僕に訴えかけた。その瞳には、必死の懇願の色が浮かんでいる。
「でも、蒼と出会って、私は本当に変わろうと思った! あなたの優しさに触れて、こんな汚れた自分を捨てたいって、心から願ったの! あの人との関係も、何度も終わりにしようとした! でも、あの人は許してくれなくて……『お前の夫にすべて話すぞ』って脅されて……ずるずると、今日まで……。信じて! あなたへの愛情だけは、本物なの! 詩と湊を愛している気持ちも、嘘じゃないのよ!」
悲痛な叫び。もし、僕が何も知らずにこの告白を聞いていたら、少しは同情したかもしれない。彼女もまた被害者だったのだと、そう思ったかもしれない。
だが、僕は知っている。彼女が、僕との幸せな日々を黒瀬に報告し、僕を嘲笑っていたことを。僕の愛情を、不貞を隠すための隠れ蓑にしていたことを。
「黙れ」
僕の、氷のように冷たい一言が、理亞の懇願を遮った。
「お前の言葉は、もう何一つ僕の心には響かない。お前が被害者だった過去があったとして、それが何だ? それが、僕を八年間も欺き、僕たちの子供がいるこの家から、別の男の元へ通い続けたことの免罪符にでもなるというのか?」
僕はゆっくりと立ち上がり、彼女の前に仁王立ちになった。
「お前は、僕の優しさに感謝したんじゃない。僕の鈍感さに感謝したんだ。お前は、僕との愛を育んだんじゃない。僕との家庭を、お前の醜い情事のアリバイ工作に使っただけだ。違うか?」
理亞は何も言えず、ただ震えていた。その姿は、僕の目には哀れな被害者ではなく、嘘を暴かれた卑劣な詐欺師にしか見えなかった。
「お前は勘違いをしているようだから、一つ、教えてやろう」
僕は静かに、だがはっきりと告げた。
「黒瀬玄間を破滅させたのは、彼の妻じゃない。この僕だ」
「……え?」
理亞の顔が、恐怖と混乱に歪む。
「お前の行動は、すべて監視させてもらった。探偵を雇い、黒瀬の不正の証拠もすべて集めた。社内への告発も、彼の妻への情報提供も、すべて僕が仕組んだことだ。お前がさっきまで受けていた、僕のあの『優しさ』も、すべては今日、この瞬間のためのお膳立てに過ぎない」
真実を告げられた理亞は、まるで雷に打たれたかのように硬直した。彼女が最後の拠り所としていたであろう「優しい夫」の姿が、目の前で木っ端微塵に砕け散ったのだ。その瞳に浮かぶのは、もはや絶望を超えた、純粋な恐怖だった。
「あ……あ……」
声にならない声を漏らし、後ずさる理亞。僕はそんな彼女に、最後の宣告を下すために、書斎から持ってきた封筒を投げ渡した。中から、数枚の紙がはらりと床に落ちる。
「それは、離婚届だ。僕の署名と捺印は済ませてある。お前もサインしろ」
「いや……いやよ! 離婚なんて絶対にいや! お願い、蒼、考え直して! 私、もう二度としないから! 何でもするから!」
理亞は僕の足元に泣きながらすがりついてきた。だが、その手を僕は冷たく振り払う。
「もう遅い。それから、これは慰謝料の請求書だ。黒瀬玄間と、お前、二人に請求させてもらう。払えなければ、お前の実家にも話を通すまでだ」
「そんな……ひどい……」
「ひどい? 八年間、僕の人生と尊厳を踏みにじり続けたお前が、どの口で言うんだ」
僕の言葉に、理亞は力なく崩れ落ちた。だが、本当の絶望は、まだこれからだった。
「詩と湊の親権は、僕がもらう。お前のような女に、母親の資格はない」
「待って……! それだけは……! 子供たちだけは、私から奪わないで……! お願いだから……!」
理亞の、今度こそ本物の、魂からの絶叫だった。母親としての、最後の叫び。だが、僕の決意は揺るがない。
「奪う? 違うな。お前が、自らの手で手放したんだ。あの穢れた男の腕に抱かれていた瞬間に。お前はもう、あの子たちの母親じゃない。ただの、僕の家庭を壊した女だ」
僕は、理亞が差し伸べようとした手を、足で無慈悲に踏みつけた。
「今すぐ、この家から出ていけ。お前の荷物は後でまとめて送ってやる。二度と、僕と子供たちの前に顔を見せるな」
夜が白み始めた頃、理亞は、まるで抜け殻のようになった体を引きずり、一度も振り返ることなく家から出て行った。彼女が閉めたドアの音が、やけに重く響いた。
こうして、僕の復讐は終わった。
数週間後、黒瀬玄間は会社を懲戒解雇され、妻から多額の慰謝料を請求されて離婚。不正流用した経費の返還も求められ、社会的地位も家庭も財産も、すべてを失ったと風の噂で聞いた。さらに、僕が情報を提供した他の被害者からも訴訟を起こされ、文字通り、社会から抹殺された。まさに因果応報、自業自得の末路だった。
理亞は、実家にも居場所がなく、今は一人、安アパートでパートをしながら暮らしているらしい。何度も僕や子供たちに接触しようとしてきたが、弁護士を通じて一切を拒絶した。彼女はこれから、僕たち家族から奪った幸せの重さを噛みしめながら、孤独と後悔の中で残りの人生を生きていくことになるのだろう。
すべてが終わった。偽りの平和が崩れ去ったこのマイホームには、静けさだけが残った。
僕は、がらんとしたリビングを見渡す。ここに満ちていたはずの幸せな笑い声は、すべて幻だった。僕が築き上げたと思っていた玉座は、脆い瓦礫の山に過ぎなかった。復讐を遂げた達成感など、どこにもない。あるのは、胸にぽっかりと空いた、巨大な空洞だけだった。
その時、二階から小さな足音が聞こえてきた。
「パパ、おはよー……」
寝ぼけ眼をこすりながら、詩が階段を下りてくる。その後ろから、湊も「ぱぱー」と言いながらついてきた。
僕は、胸に広がっていた虚無感を振り払うように、膝をついて両腕を広げた。二人は、僕の腕の中に、当たり前のように飛び込んでくる。その温かさ、その重み。これだけが、この世界に残された、唯一の本物だった。
「おはよう、詩、湊。お腹すいたか?」
「うん! ママは?」
詩の無邪気な問いに、僕の胸がちくりと痛む。
僕は、二人の頭を優しく撫でながら、できるだけ穏やかな声で言った。
「ママはね、少し遠いところに、お出かけしたんだ。だから、これからはパパと三人で、頑張っていこうな」
子供たちは、まだよく分かっていない顔で、こくんと頷いた。
そうだ。僕には、悲しみに浸っている時間などない。この子たちを守らなければならない。この子たちの未来を、僕が作っていかなければならない。
僕は、瓦礫の山の上に、もう一度立ち上がった。失ったものは大きい。だが、守るべきものは、この腕の中にある。
偽りの幸せが終わりを告げたこの家で、僕は二人の子供たちと共に、本物の未来を築いていくことを、静かに誓った。朝日が、僕たち三人を、静かに照らし始めていた。




