第二話 パンドラの箱は、妻のスマホの中に
あの週末から、僕の日常は一変した。表面上は何も変わらない。朝になれば会社へ行き、夜になれば家に帰る。優しい夫を演じ、愛情深い父親を装う。しかし、僕の内面は、静かに燃え盛る地獄の業火に焼かれていた。
理亞の一挙手一投足が、僕の疑念を増幅させた。スマホを触る指の動き、ふとした瞬間に遠くを見る瞳、僕との会話中に一瞬だけよぎる上の空の表情。そのすべてが、裏切りの証拠のように思えてならなかった。
眠れない夜が続いた。ベッドの隣で安らかな寝息を立てる理亞の横顔を、暗闇の中で見つめる。この腕の中にいる女は、本当に僕の知っている理亞なのだろうか。それとも、僕の知らない顔を持つ、全くの別人なのだろうか。黒瀬の腕の中でも、こんな風に安らかに眠るのだろうか。想像が脳を駆け巡り、嫉妬と憎悪で気が狂いそうになる。
だが、感情に任せて問い詰めるのは愚の骨頂だ。それでは理亞に言い逃れの隙を与えるだけ。それに、黒瀬は僕の直属の上司だ。下手に動けば、社内での僕の立場が危うくなる可能性もある。
復讐するなら、完璧に。
僕の中に眠っていた、システムエンジニアとしての冷静で分析的な思考が、熱い感情を抑え込み、冷徹な行動計画を組み立て始めた。必要なのは、感情論ではない。覆すことのできない、客観的な事実。つまり、証拠だ。
計画の第一歩は、理亞の行動を正確に把握することだった。
「理亞、そういえば、前に使ってたスマホってどうしたっけ? 湊が動画を見るときに、僕のスマホだと仕事の連絡も入るから、子供用に一台あってもいいかと思って」
ある日の夕食後、僕はあくまで自然を装って切り出した。理亞は一瞬、きょとんとした顔をしたが、すぐに「ああ、あれね」と思い出したように頷いた。
「確か、引き出しの奥にしまってあるはずよ。まだ使えるのかしら?」
「バッテリーは劣化してるだろうけど、家でWi-Fiに繋ぐだけなら問題ないさ。ちょっと探してみてくれるか?」
僕の言葉に、理亞は「わかったわ」と素直に立ち上がった。彼女の中に、僕への警戒心はまだない。僕はそのことに安堵しつつも、心の奥が冷たく凍っていくのを感じた。
しばらくして、理亞が持ってきたのは二年前に機種変更した古いスマートフォンだった。僕が彼女の誕生日にプレゼントしたものだ。受け取ったそれを手に、僕は自分の書斎にこもった。
ここからが本番だ。PCの前に座り、深呼吸を一つ。学生時代、少しばかり齧った知識が、今、こんな形で役立つことになるとは皮肉なものだ。僕は慎重に、だが手早く作業を進めた。
古いスマホを初期化し、僕のサブアカウントでログインする。そして、監視用のアプリをいくつかインストールした。GPS追跡、通話やメッセージアプリのログ取得、周囲の音声の録音。法に触れかねないグレーな領域の行為であることは分かっていた。だが、もはや僕にためらいはなかった。真実を知るためなら、悪魔にだって魂を売る覚悟だった。
準備は整った。あとは、この『トロイの木馬』を、どうやって理亞の生活に溶け込ませるかだ。
翌日、僕はそのスマホをリビングのテーブルに置き、子供たちに使い方を教えてやった。
「詩、湊。これはパパとママが昔使ってたスマホだから、二人で使っていいぞ。でも、YouTubeを見たり、ゲームをしたりするのは、このおうちの中だけだからな。分かった?」
「「わーい! やったー!」」
二人は大喜びでスマホに飛びついた。それを見ていた理亞が、少し呆れたように、でも優しく笑う。
「もう、蒼は甘いんだから。でも、ありがとう。これで私のスマホを占領されなくて済むわ」
計画通りだ。理亞は僕の意図に全く気づいていない。これからこの古いスマホは、子供たちのおもちゃとして、常にリビングに、理亞の生活圏内に存在することになる。僕が仕込んだ監視アプリは、この家のWi-Fiを通じて、理亞のメインスマホのデータや、リビングでの会話を僕のクラウドストレージに静かに送り続けるだろう。
それから数日間、僕は息を殺してデータを収集し続けた。仕事中も、PCの画面の隅に表示させた監視コンソールから目が離せない。GPSは、理亞が日中、スーパーや公園、詩の習い事の送り迎えといった、いつもの行動範囲を正確に示していた。リビングの音声ログにも、子供たちとの平和な会話や、ママ友との当たり障りのない電話が記録されているだけだった。
もしかしたら、本当に僕の勘違いだったのかもしれない。黒瀬部長からのメッセージも、何か特殊なプロジェクトの隠語で、僕が深読みしすぎただけなのでは……。
そんな淡い期待が芽生え始めた、金曜日の昼休み。
会社の自席で、いつものように監視コンソールを眺めていた僕の心臓が、大きく跳ねた。GPSの示す位置情報が、見慣れない場所で停止していたのだ。そこは、都心から少し離れた、ラブホテルが密集するエリアだった。
そして、ほぼ同時に、音声ログが新たなファイルをアップロードした。再生ボタンをクリックする指が、震える。ヘッドフォンから流れ込んできたのは、車のエンジン音と、理亞の少し上ずった声だった。
『……もう、こんな昼間から。誰かに見られたらどうするの』
『大丈夫だろ、誰も見てないって。それより、早く行こうぜ。待ちきれないんだよ、お前の体が』
その声は、紛れもなく黒瀬玄間のものだった。ねっとりとした、欲望にまみれた声。僕が毎日、会議室で聞いている上司の声とはまるで違う、獣のような響きがあった。
『……玄間さん、強引なんだから』
理亞の、甘えるような、媚びるような声。それは僕の知らない声だった。僕には決して向けられることのない、蕩けた声。
そこで音声は途切れた。おそらく、二人が車を降りてホテルに入ったのだろう。
僕はヘッドフォンをむしり取るように外し、デスクに突っ伏した。全身から力が抜け、呼吸がうまくできない。頭を鈍器で殴られたような衝撃。分かっていたはずなのに。覚悟していたはずなのに。現実として突きつけられた裏切りは、僕の精神を根元から揺さぶった。
怒り。悲しみ。絶望。憎悪。あらゆる負の感情が渦となって僕を飲み込んでいく。なぜだ。なぜ理亞が。なぜ僕の部下でもある彼女に、黒瀬は手を出すんだ。そしてなぜ理亞は、それを受け入れているんだ。
その日の午後の仕事は、全く手につかなかった。ただ機械のようにキーボードを叩き、時間が過ぎるのを待った。定時になると同時に会社を飛び出し、僕は半ば無意識に車を走らせていた。
家に帰りたくなかった。理亞の顔を見たくなかった。だが、子供たちの顔が脳裏に浮かぶ。僕が帰らなければ、あの子たちは悲しむだろう。歪んだ笑顔を顔に貼り付け、僕は自宅のドアを開けた。
「おかえりなさい、あなた!」
エプロン姿の理亞が、いつもと同じ笑顔で出迎える。昼間、別の男に抱かれていた女が、何食わぬ顔で夫を出迎える。その光景のあまりのグロテスクさに、吐き気がした。
「……ただいま」
僕は理亞の横をすり抜け、まっすぐ書斎へ向かった。背後から「あら、どうしたの? 疲れてる?」と気遣う声が聞こえたが、振り返ることはできなかった。
書斎のドアを閉め、鍵をかける。震える手でPCを立ち上げ、クラウドストレージにアクセスした。まだだ。まだ足りない。GPSと音声だけでは、決定的な証拠とは言えないかもしれない。僕が必要なのは、言い逃れの余地を一切与えない、完璧な証拠だ。
僕は、以前理亞が使っていたSNSのアカウントを思い出した。結婚してからはほとんど更新していなかったが、アカウント自体は残っているはずだ。パスワードは、彼女の誕生日や記念日を組み合わせたものだった。僕はいくつか試した後、ある一つの組み合わせでログインに成功した。
彼女のダイレクトメッセージの履歴を遡る。ママ友や学生時代の友人とのやり取りが並ぶ中、僕は一つのアカウント名に目を留めた。プロフィール写真は設定されておらず、一見すると誰だか分からない。だが、そのアカウントとのやり取りを開いた瞬間、僕は息を呑んだ。
そこには、十年以上にわたる、理亞と黒瀬玄間のおぞましい歴史が、克明に記録されていた。
『明日の飲み会、楽しみにしてる。二次会、抜け出す準備しとけよ』
『はい、部長。でも、ほどほどにしてくださいね』
日付は、十一年も前。理亞が入社して間もない頃のやり取りだ。ここから、すべては始まったのか。読み進めていくと、言葉遣いが徐々に変化していくのが分かった。
『昨日はごめん。少し、飲みすぎた。無理やりだったよな……』
『……大丈夫です。私も、悪かったので』
これは……。黒瀬からのメッセージには、どこか罪悪感のようなものが滲んでいる。だが、その数日後には、再びホテルへの誘いのメッセージが送られていた。そして、それに理亞が応じている。
『この前の写真、大事に持ってるからな。俺の言うこと、聞けるよな?』
脅迫だ。卑劣極まりない。最初は無理やりだったのか。そして、写真で脅されていたのか。理亞は被害者だったのか? 一瞬、そう思った。だが、メッセージをさらに読み進めるうちに、その淡い期待は無惨に打ち砕かれた。
年月が経つにつれて、二人の会話は明らかにその質を変えていた。脅迫のニュアンスは消え、代わりに倒錯した共犯者のような空気が漂い始める。
『最近、桐谷とうまくいってるのか?』
『ええ、すごく優しい人です。私のこと、本当に大切にしてくれて』
『ふーん。まあ、せいぜい愛妻を演じるんだな。お前の体は、俺が一番よく知ってるけどな』
『……やだ、玄間さんのいじわる』
僕と付き合い始めた頃のやり取りだ。僕との幸せなデートの報告をしながら、同時に黒瀬との次の密会の日程を決めている。吐き気がする。僕との純粋な愛の日々は、この男との不貞を隠すための、完璧なカモフラージュだったというのか。
さらにスクロールしていくと、僕との結婚、妊娠、出産、そのすべてが、黒瀬に逐一報告されていた。
『妊娠したって? 良かったじゃねえか、旦那は喜んでるだろ』
『はい……。でも、しばらく会えなくなりますね』
『つわりが明けたらな。子供ができたくらいで、俺たちの関係は終わらないだろ?』
僕が詩の誕生に涙して喜んでいた、まさにその裏で。理亞は、この男との関係が終わらないことを確認し合っていた。
極めつけは、僕がプレゼントした覚えのないネックレスについて言及しているメッセージだった。
『この前のネックレス、旦那さんには何て言ったんだ?』
『会社の忘年会の景品で当たったって言いました。蒼、全然疑ってなくて。可愛いですよね』
あのネックレスは、黒瀬からのプレゼントだったのか。そして、僕の無知を、二人で笑っていたのか。
もう、限界だった。
僕はPCの画面を睨みつけながら、ただ静かに涙を流した。悲しみではない。怒りでもない。それは、あまりにも巨大な虚無感からくる涙だった。僕の八年間は、僕の信じてきた愛は、家族は、一体何だったのか。すべてが、このおぞましい欺瞞の上に築かれた砂上の楼閣だった。
写真や動画が添付されたメッセージも大量に見つかった。ホテルのベッドで乱れた姿の理亞。黒瀬に卑猥な言葉を囁く動画。僕との結婚式の写真の隣に、黒瀬とのツーショット写真を並べて『どっちが本当の私かな?笑』などとふざけたコメントを付けている投稿まであった。鍵付きのアカウントで、フォロワーは黒瀬ただ一人。二人のためだけの、秘密の交換日記だったのだ。
僕は、見つけたすべてのメッセージ、写真、動画を、一字一句、一枚残らず自分のPCにバックアップした。これが、僕の武器になる。理亞と黒瀬玄間という二匹の獣を、社会的に、そして精神的に抹殺するための、最強の弾丸だ。
すべてのバックアップを終えた頃には、窓の外はすっかり白んでいた。一睡もしていなかったが、不思議と疲れは感じなかった。心の中は、凪いだ湖面のように静まり返っていた。すべての感情が燃え尽き、後に残ったのは、冷たく硬質な、純度百パーセントの復讐心だけだった。
書斎のドアを開けると、リビングから子供たちの明るい声が聞こえてきた。僕の気配に気づいた理亞が、ひょっこりと顔を出す。
「蒼? 昨日はどうしたの? ずっと書斎にこもって……。もう朝よ、ご飯できてるわ」
その顔には、何の曇りもない。完璧な妻の、完璧な笑顔。
僕は、生まれて初めて、心の底から人を殺したいと思った。
だが、僕はゆっくりと首を横に振る。そして、自分でも驚くほど穏やかな声で言った。
「ああ、すまない。少し、仕事のことで考え事をしていたんだ。今行くよ」
僕は、完璧な愛妻家を演じ続けなければならない。復讐の舞台が整い、最後の幕が下りる、その時まで。
チェス盤は用意された。駒も揃った。これから始まるのは、僕が仕掛ける、一方的な詰将棋だ。
僕は、偽りの笑顔を浮かべ、何も知らない妻と子供たちが待つ食卓へと向かった。最後の朝食になるかもしれない、偽りの家族団欒のために。




