第8章 婚約破棄騒動の顛末 2
魅了魔法が解呪されて正気を取り戻したライオネル王太子は、自分が大好きだったエリスティアに冷たくあたっていたことは覚えていた。
側近に言われて魔除けの指輪をはずしたことも。
苛められているの、助けてと縋ってくる男爵令嬢に頼られると嬉しくて、守ってやっている気になって、自尊心が満たされて気分がよくなっていたことも。
学園の卒業式で、エリスティアがジャネットを虐めていたと激怒して無実の彼女を断罪したことも。
しかし何故エリスティアに婚約破棄を宣言したのか。何故彼女を牢獄へぶち込めと命令したのか。何故愛するエリスティアを、辺境の熊男へ無理矢理に嫁がせたのか。
どうして自分がそんなことをしたのか、いくら考えてもわからなかった。
しかも自分が、あの女と浮気をし、体の関係まで持っていたことは全く記憶になかった。覚えていなかった。
知らない。知らない。知らない!
彼は知らないと主張し続けた。しかしいくら王太子自身には記憶がなくても、彼がジャネットと関係を持ったことに間違いはないし、それは変えられないことだった。
そして未来の王妃となるはずだった素晴らしい女性を冤罪でその名誉を傷つけ、婚約破棄をし、投獄し、侯爵令嬢の身分を奪い、彼女には全く相応しくない辺境の熊男などに嫁がせてしまった事実は変えられなかったのだ。
王太子は何度となく謝罪の手紙をホーズボルト辺境伯夫人となったエリスティアへ送ったが、返事は一度も返っては来なかった。
しかし礼儀正しい彼女が手紙の返事を返さないとは到底考えられない。
きっと辺境伯が自分の手紙が彼女に届かないようにしているに違いない。
さもなくば彼女の書いた手紙をこっそりと誰かに破棄させているかだ。
彼はこんな勝手な想像をした。普通なら自分が嫌われているから返事を返してもらえないのだとわかるだろうに。
そこで王太子は、エリスティアの実家フォーリナー侯爵からの手紙なら読んでもらえるのではないか、と考えた。
しかし、実家が手紙を送ってもやはりエリスティアからの返事がないことを知り、名前を借りても無理だということがわかった。
何せエリスティアは、父親の侯爵が一時危篤状態に陥った時に連絡をしても、見舞いどころか手紙一つ寄越さなかったというのだから。
絶縁されたエリスティアからすればそれは当然の対応だったのだが、王太子やフォーリナー侯爵家の人間はそうは考えなかった。
自分達がした所業も省みず、王太子も元家族もあんなに優しかったエリスティアが冷酷な人間になってしまったと嘆いた。
そしてそれは夫のガースン=ホーズボルト辺境伯のせいだと信じて疑わなかった。
というのも、フォーリナー侯爵は国王に召喚されて謝罪された後、除籍は取り止めるとエリスティアに手紙を送っていた。
そのために、それだけで彼らはすっかり安心して、彼女の身分がその後どうなったのかを把握していなかったからだ。彼らは本当に愚かだった。
その時既にエリスティアは辺境伯と婚約していたのだから、本来そこで彼らは気付くべきだったのだ。
本来なら貴族籍を剥奪されて平民になった彼女が、辺境伯と婚約などできるわけがないということに。
エリスティアは顔合わせの後、間髪を入れずに辺境伯の親類のポートン伯爵家の養女となって、すぐさま辺境伯と婚約したのだ。
今後どこからも横槍が入らないように、邪魔をされないように。
そのことに気付かず、侯爵家では返事を寄越さない娘並びに辺境伯家にずっと腹を立てていたのだ。
既に赤の他人にとなっている彼らから、今さら上から目線で除籍は取り止めてやると言われても、お門違いも甚だしい話だったのだ。
その後王太子は、何度か王宮や王城のパーティーの招待状を送ったが、欠席の返事が届くばかりだった。
いつしか王太子は、エリスティアは夫であるホーズボルト辺境伯に屋敷に監禁されているから手紙も出せないし、王都に出てこられないのではないかと疑うようになった。
そしてホーズボルト辺境伯夫人を夫から解放したい、助けたいと父親である国王に訴えたが相手にされなかった。明確な証拠もなしに、ただの憶測で国が一方的に辺境伯の屋敷に踏み込めるはずがないのだから。
そもそも王太子は国王や国に意見や、願い事を言える立場ではなかった。
跡取りがもう既にいるために、彼の存在意義はもはや希薄になっていたからだ。
その上政略結婚というか契約結婚したイーリス王妃が殊の外優秀で、国王陛下夫妻の良き補佐役になっていたので、王太子は本当にお飾り状態だったのだ。
イーリス王妃は結婚後すぐにこの国に残ることに決めたのだ。
今さら国に戻っても日陰の身でひっそりと暮らすだけの人生だろう。それならこの国の王太子妃でいた方が、今まで学んできたことを活かすことができるし、やり甲斐があって楽しいと。
しかもこの国には彼女を母だと慕ってくれるかわいい息子がいる。その息子の側に居ることが、イーリス王妃にとっては何よりの幸せだったのだ。
とはいえ、このまま平穏な日々が続くとはイーリス王妃も考えてはいなかった。
いつまでも国王陛下が元気でこの国を治めていけるわけではない。
ブリトリアンが成人する前にもし陛下が崩御されたとしたら、あの頼りない体たらくな王太子が無事に即位できるとは限らない。
あのやる気満々で権力に目が無いオークウット公爵が、王太子に成り代わって即位しようとしてくるに違いない。
そして一度彼に王位を渡してしまったら、それがブリトリアンに戻ってくることはない。オークウット公爵にはブリトリアンと同じ年の息子がいるのだから。
かわいいブリトリアンに王位に就かせるためには、絶対に王太子に国王になってもらわないと困る。
そこでイーリス王妃は、形式上の夫であるライオネル王太子にこう言った。
「殿下が過去を反省し、本気でエリスティア様に償いたいとおっしゃるのなら、それは態度で示さなければいけませんわ。口先だけでどんなに助けたいと言っても、そんなことは何の意味もありませんもの」
「分かっている。しかし一体どうしたらいいのかわからない」
「まずは殿下がお力を持たれることですわ。そうすれば下の者は殿下の命に従いますわ。
殿下は元々優秀でいらっしゃいます。学園在学中は男性の中では常にトップでいらしたのですから、何の問題もありませんわ。
それに殿下は幼き頃よりしっかり帝王学も学ばれてきたのですから、やる気さえお出しになれば、今からでも立派な国王になれますわ。
それに殿下にはブリトリアンが尊敬できるお父様になって欲しいのです。ブリトリアンはお父様が大好きですから」
そうなのだ。ブリトリアンは母親だけではなく、父親にもよく懐いていた。意外なことにライオネル王太子は子煩悩だったのだ。
息子を産んだあの男爵令嬢のことは憎んでも憎みきれないほど嫌いだった。できればこの手で殺してやりたかったほどに。
しかし不幸中の幸いなのか、あの女との行為の記憶が全くなかったので、息子まで嫌いになることはなかったのだ。
もし覚えていたら息子を受けいれられなかったかもしれないが。
おそらく自分の子供は今後もブリトリアン一人だけだとライオネルは思っていた。正妻の王妃とは白い結婚であるし、側妃や愛人を持つ気もない。
国王夫妻や王太子妃からは自由にしていいと言われていたのだが、今更新たな妻や子ができて揉めるのは嫌だった。
それよりブリトリアンを大切に育てたいと思う気持ちの方が大きかったのだ。
「そうか。息子を立派に育てるためには、まずは父親である自分が、息子に尊敬してもらえる人間にならねばならないのだな。
今さらだが頑張ってみるよ。ただし情けないことに自分一人では難しいと思う。
君にはこれまでも迷惑ばかりかけていて本当に申し訳ないと思っているのだが、協力してくれないだろうか」
ライオネルの思いもよらない要望にイーリス王妃は驚きの表情が浮かべながらも、やがて慈愛の籠もった瞳で微笑みながら頷いた。
「ええ、もちろんですとも」
結婚をして三年。お互い初めて目を合わせた。
そして初めて見る表情に新鮮な驚きを感じながら、夫婦にはなれなくてもブリトリアンの親同士として家族にはなれると、お互いにそう感じたのだった。
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