chapter3_1_11 ドイツの斜陽
1942年夏から43年の春にかけて、連合軍と枢軸軍による海と空の戦いは一つのピークを迎えることになります。
これは、ひとえに双方の戦時生産がそのピークを迎えていた事と、枢軸軍が攻勢から守勢へと追いやられ、連合軍が攻勢に転じようとしていた、まさにそのターニングポイントだったからです。
特に海での戦いは、そのまさにたけなわにありました。
1943年に入るとドイツの戦時生産は、連合軍の爆撃にも大きな影響を受けることなくそのピークを迎え、前線に配備されるUボートの数も200隻を数えるようになります。
主力となったのは、「VII型」と呼ばれるタイプで、第二次大戦中に実に700隻近くが建造された最多量産艦の一つでした。
性能はドイツらしいまとまりを見せ堅実なものでしたが、量産性を第一に考えられたものであるだけに、その性能はドイツとしては平凡と言って良く、その数にこそ最大の戦力発揮効果がありました。
また、空軍との連携も海軍関係者の苦労によりある程度実現され、最大のシーレーン航路であるジブラルタル=英本土間のビスケー湾において、連合軍と熾烈な戦いを演じる事になります。
これらの兵力の効果的運用により、枢軸軍は連合軍の各種交通路を脅かし、一ヶ月で50万トン近くもの船舶を撃沈する戦果をあげました。
ただし、潜水艦隊の司令官であったデーニッツ提督は、戦果とその損害など様々な要因から、Uボートによる通商破壊がすでに限界に達していることを十二分に知っており、前線部隊においては可能な限りの措置をとりつつも、司令部に対してこれを警告しました。
しかし、この当時は通商破壊が大きな成果を挙げていた事と、日英が抱える膨大な数の高速戦艦の群の前に、ドイツ大海艦隊の水上艦隊が出撃すら満足に行えない事から、この警告が本気で受け入れられる事はなく、この時点での機材の向上に失敗した事が、ドイツ潜水艦隊に大きな影を落としていくことになります。
一方の連合軍も、シーレーンの防衛には非常な努力が払われました。
日本本土において大型戦艦の建造を延期してまで完成が急がれた、多数の護衛空母とその搭載機、「松」級護衛駆逐艦を始めとする膨大な数の新型護衛艦艇、そしてそれらに搭載された日英共同開発の新型RDFをはじめとする電波兵器の数々を以て、これに対する一つの解答を提示します。
中でも、1942年末に日本で開発され、急ぎ運用が開始されたMAD、「磁気探知装置」は、対潜哨戒機に搭載・運用される事により絶大な効果を発揮し、英国生まれの極超短波RDFと共に、ドイツ軍艦艇の行動を封殺していく大きな原動力となります。
なお、この二つを有機的に用いた対潜ハンターチームは、闇夜においても全く相手に視認させることなく潜水艦の撃沈に何度も成功した事から、『ルフト・ニンジャ』と呼ばれドイツ潜水艦乗りを恐怖に陥れる事になります。
ちなみに、この当時は極超短波RDFは、近距離の探知が出来ないことから、RDFを用い相手に接近し、反対に近距離での探知しかできないMADを用いて攻撃を行うと言う戦法をとっていました。
(最後はサーチライトで照射という側面も多かったと言われる。)
そして日本海軍は、41年初頭から一ヶ月に一隻の割合で護衛空母を就役させ、43年に入る頃には、既存の軽空母などを含めると30隻近い陣容を誇る護衛空母を中核とした一大洋上護衛兵力を作り上げる事に成功します。
ちなみに、日本での護衛空母の建造ピーク時には、月産3隻を記録した事もありました。
これは、今回の戦争がいかなるものかを体験的に会得した日本海軍が、それまでの艦隊決戦第一主義から180度転換した事を如実に示すものであり、その象徴的出来事として海軍の期待の星として建造が進められていた20インチ砲を装備した「大和級」戦艦の1、2番艦の建造順位が大きく下げられ就役が結局戦後になり、3、4番艦の建造が中止されたことがあります。
今回の戦争で、日本海軍は1隻の超大型戦艦などよりも、数隻の護衛空母の建造を選択したのです。
また、英国でも「ハント級」を始めとする膨大な数の護衛艦艇が建造され、遠路来援する日本海軍に助けられながらも、優れた装備と戦術を以てドイツ潜水艦隊の圧力を押しつぶしていくことになります。
また、日英の造船力が、ドイツの通商破壊のスピードを大きく上回っていた事も、シーレーンを防衛させた大きな要因だった事も忘れてはならないでしょう。
しかもこれは、米国から多数の船舶が現地で購入される事により補強され、ピーク時には月産100万トンもの艦船が就役する数値を叩き出す事になります。
こうした日英による努力により、43年夏には完全な優位を作り上げる事に成功し、44年に入る頃にはドイツ軍の潜水艦の活動を絶望的なレベルに追い込むことに成功します。
海での熾烈な戦いが行われている頃、空でもドーバー海峡を挟んで熾烈な戦いが展開されていました。
戦いの主導権を握っていたのは、基本的に攻撃側となっていた連合国側です。
特に、42年から43年までは英国による大規模夜間爆撃とドイツ防空隊の戦闘が主役を演じます。
この戦いでは、基本的に東部戦線を抱え喘いでいるドイツ軍に対して、実質的にこの戦線に全力を投入すればよい英国空軍が大兵力を投入してドイツ占領下の各地を爆撃していました。
もちろん、ドイツ軍による英本土爆撃も行われましたが、最早往年の面影はなく、RAFのそれと比較すると比較にすら値しないものとなりつつありました。
英国は、ルール工業地帯を中心として激しい爆撃を行いますが、それにも関わらずドイツの工業生産は衰えることなく、工場から次々に兵器を吐き出していました。
この事に特に大きな疑問を持ったのは、日本軍でした。
42年の6月にあれ程の犠牲を払ってプロエシュチ油田を破壊したのに、ドイツ軍の行動がそれ程鈍っていないからです。
資源小国だからこその発想とも言えますが、それだけに日本軍は熱心に調査を行いました。
日本は悩みます。
プロエシュチ油田と言えば、日本にすれば満州油田かそれ以上の価値のある油田であり、ドイツの戦争経済の命運を担うほどの存在の筈が、なぜ破壊の効果がこれ程低かったのか。
もしかしたら、どこか新たな油田が戦中に発見され、膨大な油が産出されているのではないか、と。
しかし、答えは意外な所にありました。
それは、化学先進国であるドイツが、工場で石油に依らず各種石油精製物を大量に製造している事実が判明したからです。
確かに、ドイツは化学先進国でしたが、まさか生産の3分の1以上、統計によっては全体の半分にも及ぶ石油精製物が石炭などから人造的に製造されているなど思いも寄らなかったからです。
この報告は、英国すら呆気にとらせるものでした。
情報戦に長ける英国も、このような事態は全く予想していなかったからです。
そしてさっそく爆撃計画の変更が開始されました。
しかも、その根底から変えるほどの変更が行われます。
これは、丁度日本が新たな戦力と共に膨大な数の攻撃部隊を英本土・大西洋に投入しつつあった事もあり、それだけに作戦変更後の開始当初、ドイツ軍に対して奇襲に近い効果を発揮する事になります。
では、ここで少し日本軍が投入した新たな戦力について少し紹介しましょう。
投入された戦力の大半はもちろん航空戦力です。
特に長距離戦闘機と重爆撃機が重要と言えるでしょう。
長距離戦闘機は、後に「飛燕」として有名になる三式戦闘機と「疾風」です。
「飛燕」は、当初英国の「スーパーマリン」エンジンをライセンス生産した「熱田21型」を搭載して作られましたが、それを42年秋に新型の「グリフォン」エンジンに換装し、それに合わせて機体設計などを改修したものが本タイプにあたります。
このエンジンの換装とそれに合わせた機体の改良により、「飛燕」は爆発的な能力向上に成功し、第二次世界大戦最高の液冷戦闘機とすら言われる性能を発揮する事になります。
1580馬力のグリフォンエンジンと優れた機体設計により実に時速700キロを叩き出し、その作戦行動半径も増槽付きで1000kmに達する数値を示し、発注側の英国と日本陸軍が当初求めた迎撃機でなく、侵攻機としての能力を十分に持っていた事も本機の価値を大きくしていました。
この航続距離に関する数値は、ベルリンすらその翼下に収める事をしめしており、この時期においてまさに何にも勝る価値を持っていると言えました。
これは、同じくグリフォンエンジンで高性能を発揮したスピットファイアなどと比較しても、決定的な差と言ってよいでしょう。
一方の「疾風」は、日本航空隊(艦載機型は「烈風」)の空冷戦闘機の切り札として、つまり最初から長距離侵攻戦闘機として計画、就役しました。
2000馬力級の強力な心臓と、それに支えられた強固な機体、強力な武装、そして空冷エンジンなればこその高い稼働率と生存性。
日本機特有の高度な格闘戦能力。
どれをとっても世界第一級のものであり、ドイツが42年頃から本格的に運用を開始していた「フォッケウルフ」の好敵手として欧州の空を舞うことになります。
後にエンジンを換装した「疾風改」は、時速680km/hの最高速度を叩きだし、同じく改良された「フォッケD型」などに対抗しました。
そして、「疾風」とその改良型は、日本最多の生産機数を記録する事になります。
また、日本海軍の重爆撃機の決定版として送り出された「連山」ですが、この爆撃機は戦訓を踏まえた上で完成されただけに、それまでの貧弱な防御力しか持たない日本機とは一線を隔てるものでした。
その外見も見かけこそ日本機らしさを維持していましたが、重厚さにおいて全く違う機体である事をアピールしていました。
全長約25m、全幅約36m、爆弾積載量5トンと言う数字は、英国が運用している物と比べて大差ないものでしたが、2000馬力級エンジンを搭載し、強固な構造と防御火力を持ち、高高度の飛行が可能であり、しかも最高時速が590km/hに達していた事は、この機体が新世代の機体であり、ドイツを爆撃し生還する可能性が非常に高い事を示していました。
しかも、約一年後には、エンジンをさらに強化し機体設計を新たにした改良型「連山改」が登場します。
これは「連山」を、最高速度と到達高度、爆弾積載量、防御力などほとんどの面を大きく上昇させたもので、大戦終末期にドイツ空軍の大きな脅威となりました。
「連山」は、42年の秋に量産化が決定し、42年末には早くも最初の飛行隊が編成され、43年の春に英本土へと飛来し、夏に入るとそれまでの日本軍や英国空軍と共に、欧州爆撃へと出撃し、大きな成果を挙げるようになります。
新たに戦列に加わった彼らの第一目標は、戦略方針の変更からドイツ人造石油工場となりました。
「連山」と「飛燕」、「疾風」の実戦配備により意気あがる日本軍航空部隊は、と言うよりも英国に総指揮を委ねた事により、煩雑な雑務から解放され身軽になった現地の陸海連合航空部隊は、陸軍と海軍の軋轢もそれほど発生せず、新たなターゲットを目標にしての爆撃計画を立案します。
爆撃計画の基本は、今までタブーとされてきた昼間爆撃です。
これを実行に移そうとした背景には、長距離侵攻する重爆撃機に十分な護衛が付けられるようになった事と、重武装・重防御の爆撃機が、高速で高高度を侵空できると言う物理的な事実がありました。
43年5月、2個航空戦隊のほぼ全力、約500機の重爆撃機、戦闘機を投入して行われたドイツ大規模化学工場に対して行われた爆撃は、ドイツ軍にとって予期せぬ大規模昼間爆撃だった事もあり、たった2.6%の犠牲を払っただけで、目的の80%の破壊に成功する大成功を収めました。
もちろん、多数の僥倖によりこの成功数値が達成されたわけですが、この成功に気をよくした日本軍航空部隊は、その後約三カ月、一個航空艦隊相当を投入して作戦を展開し、損害にたまりかねて一時的に中止するまで熱心に昼間爆撃を継続します。
昼間爆撃の損害は、概ねそれまでの戦闘で低防御で有名となってしまった四発の一式陸攻とは比較にならないぐらい低いレベルに抑えられていたのですが、その損害でも当時の「連山」の生産機数が、その損害に追いつかなかったのが、作戦の一時中止をさせたのです。
この辺りは、こと航空機分野においてかろうじて欧州列強と生産力で肩を並べる国力しかなかった日本の限界を示すものと言えるでしょう。
ドイツ人造石油工場に対する爆撃は、その後も夜間爆撃を中心として執拗に続けられ、43年中には早くもその効果を各種統計数値上に見ることが出来るようになります。
そして、この数値をより確かなものにするため、連合軍によるありとあらゆる空からの攻撃が行われるようになりました。
これは、44年春にはドイツ軍パイロットの練度の極端な低下という現実となって表れましたが、それまでに連合軍も多数の犠牲を払うことになります。
このため、少しでも重爆撃機の損害を抑えるべく、かなり野心的な攻撃が海軍主導で行われる事になりました。
それは、連合軍の稼働高速空母全てを動員して、大西洋側、北海側の全ての枢軸軍防空拠点を徹底的に戦術爆撃しようというものでした。
このために地中海各地で航空撃滅戦を展開していた空母部隊が、補給と再編成の後集められます。
以下がその主な編成表となります。
●第一機動艦隊(日):(艦載機:常用約280機)
戦艦:「高千穂」、「穂高」
航空母艦:「蒼龍」、「飛龍」、「雲龍」
軽空母:「千歳」、「千代田」
重巡洋艦:「利根」、「筑馬」
防空巡洋艦:「綾瀬」、「初瀬」
防空駆逐艦4隻、艦隊型駆逐艦:12隻
●第二機動艦隊(日):(艦載機:常用約300機)
巡洋戦艦:「赤城」、「愛宕」、「高雄」
航空母艦:「翔鶴」、「瑞鶴」、「千鶴」、「神鶴」
防空巡洋艦:「水無瀬」、「音無瀬」
軽巡洋艦:「大淀」、「仁淀」
防空駆逐艦4隻、艦隊型駆逐艦:12隻
●第三機動艦隊(日):(艦載機:常用約280機)
巡洋戦艦:「金剛」、「榛名」、「比叡」
航空母艦:「大鳳」、「伊勢」、「日向」
軽空母:「日進」、「瑞穂」
重巡洋艦:「最上」、「熊野」、「鈴谷」
防空駆逐艦4隻、艦隊型駆逐艦:12隻
●英機動部隊(英):(艦載機:常用約180機)
巡洋戦艦:「インドミダヴル」、「インディファティガヴル」
航空母艦:「フォーミダヴル」、「ヴィクトリアス」
航空母艦:「イラストリアス」、「インプラガプル」
軽巡洋艦:2隻、防空巡洋艦:3隻、艦隊型駆逐艦:8隻
基本的には地中海で暴れていた頃との違いは、ほとんどありません。
ですが、まさに史上最強の空母機動部隊であり、正規空母14隻、軽空母4隻の腹の中に抱えられた艦載機数も、実に1000機以上にも上っていました。
もちろん、この数字は常用機数であり、スペアを含めるとその数は1200機にも達していました。
この数字は、ドイツ空軍の丸々二個航空艦隊のそれに匹敵しており、すでに英本土や地中海、ロシア戦線など多方面からの航空攻撃に防戦一方となっているルフト・ヴァッフェには耐え難い数字でした。
また、日英双方とも新造空母や艦載機の面でも新型機の導入が進み、それが艦載機数の増大と大きな戦力増強を実現していました。
新型の艦載機の主なものには、日本海軍の「烈風」、「彗星」、「天山」があり、英海軍の「ファイアフライ」、「バラクーダ」などがあります。
特に「烈風」は、日本陸軍の「疾風」の艦載機型で非常に高性能であり、海軍のかける期待の大きさもひとしおでした。
なお、日本海軍の「彗星」と「バラクーダ」は全く同じ機種であり、日英共同開発されたものを、それぞれの名称で運用したに過ぎません。
また、空母で特筆すべきは、日本軍が新たに投入した「大鳳」で、この空母は満載5万頓近くに達する超大型空母で、飛行甲板を英国のそれと同様に装甲で覆い、それでいて大型の艦体に多数の艦載機を搭載していました。
このクラスは、日本の戦時計画において多数の量産が計画され、護衛艦艇ともども建造が急ピッチで進行していました。
そして「大鳳」は、戦後の主力空母のプロトタイプでもあります。
なお、作戦そのものは、ドイツ潜水艦に注意しつつ日英の機動部隊を英本土の制空権のもと北海へと侵入させ、第一撃で、ドイツ本土沿岸部を徹底的に叩き、事後北海を北上させ、順次デンマーク、ノルウェーにある枢軸航空戦力を撃滅しようと言うものでした。
さらに、その時点で余力が存在していれば、一旦大西洋への離脱の後、艦隊を今度は大西洋側に回らせて、フランス沿岸を爆撃する計画も予備作戦として立案されていました。
まさに移動洋上基地たる空母の群があればこそできる無茶な作戦であり、また連合軍がこの時点でドイツ空軍に対して概ね戦術的優位を獲得しているからこそ採用できる野心的な作戦と言うこともできるでしょう。
1943年6月30日未明、北大西洋で欺瞞行動をとっていた連合軍の大機動部隊が隠密行動を取りつつ北海を全速力で南下、各地の大規模航空基地とキール、リューベク、ヴィルヘルム・ハーフェンなどドイツ海軍の主要根拠地を膨大な数の艦載機で以て強襲しました。
いつもの夜間爆撃の混乱からまだ立ち直っていなかったドイツ空軍は、それでも可能な限りの抵抗をします。
敵機接近当初、いかなる存在か不明だったため昼間戦闘機だけでなく、重爆撃機を目標とする多数の大型戦闘機(夜間戦闘機)も迎撃に向かいました。
しかし、それが仇となり圧倒的多数の艦上戦闘機の前に押しつぶされる結果となり、ドイツの混乱した防空体制を後目に、連合軍の機動部隊は各港湾・空軍基地を破壊して回りました。
攻撃はその後もう一度反復され、ドイツ北海岸の主要港湾都市全てに大きな損害をもたらし、また空軍基地、レーダーサイトなど防空体制にも大きな痛手を与えました。
もちろん、艦載機の襲来を知ると、ドイツ軍による洋上索敵と連合軍空母部隊に対する反撃が行われましたが、この攻撃は混乱の中行われた事から五月雨式の調整の取れない攻撃となり、為に300機もの防空戦闘機を前面に展開していた連合軍機動部隊の格好の餌食とされ、かろうじて接近できた僅かな数の爆撃機も艦隊が打ち上げる膨大な数の高射砲、高射機関砲の標的とされ、僅かな損害を与えただけで、その後の防空計画そのものを根底から揺るがすほどの損害を受けることになりました。
これを、日英の空母部隊は、それぞれ「北海の鴨射ち」、「北海の狐狩り」と呼び、自らの大勝利を宣伝しました。
日英の空母部隊は、三波約1600機にも及ぶ攻撃の後反転し、さらにその翌日にはノルウェー沖(正確には北大西洋上)に現れ、今度はベルゲンからトロンヘルムにかけて存在するドイツ第五航空艦隊と各港湾施設を激しく攻撃し、これを一時的に壊滅状態に追い込みます。
特に後者の攻撃は、ノルウェー各地に広く分散していた各空軍基地に対する、空母機動部隊の優位を証明するような戦闘となり、長期的に見ても以後の活動を低下させる程の効果を発揮しました。
もっとも、連続した航空作戦で空母部隊も艦載機に三割の損害を受け、予定していたフランス沿岸の攻撃は中止を余儀なくされています。
この攻撃の成功を受けて、この後も連合軍の大空母部隊を用いた戦術的強襲は、大規模爆撃と併用される形で何度も行われ、陸上基地同士のルールとは全く違う戦闘をさせられるドイツ空軍に対して消耗を強いていくことになります。
ただし、これほど巧くいった作戦は、これが最初で最後となり、以後の作戦では連合国軍の空母部隊もそれなりの損害を出すようになります。
■独ソ決戦「砦」 ▼





