90 先延ばし
◇◆◇
「私を、貴方達の旅に連れて行って――トモヤ」
世界樹の天辺付近。
頬に触れた柔らかな“それ”に戸惑うトモヤに対して、シアは満面の笑みを浮かべながらそう告げた。
そして――
「そして、結婚しよう」
「ごほっ!」
続けて出てきた言葉に、思わずむせ返ってしまう。
それほどまでにとんでもないことを、たった今シアは告げたのだ。
頭に熱がのぼり、思考がうまく働かない。
しかしそうしている間にも、シアは目を輝かせながら、今か今かと答えを待ち構えている。
ひとまずは、彼女の気持ちが本当のものなのかどうかを確かめなければならない。
「シア、お前はそれは本気で言ってるのか?」
「うん、もちろん。だって私は、トモヤのことが好きだから」
「ッ、そ、そうか」
彼女は真剣な表情のまま、僅かに頬を赤く染めてトモヤのことを好きだと言った。
ああ、さすがにもう理解できた。
彼女の言葉が心からのものだということが。
ただ、今この場において、それ以外にも訊いておかなければならないことが幾つもある。
まるで話を先送りにするみたいで申し訳ないが、心を落ち着かせる時間も少しは欲しいため、少々強引にはなるものの、トモヤは話題を変えることにした。
「……それでだな、シア。旅に連れていってほしいって願いだが、それに関しては俺から反対はない。ていうか実は、俺からもそう誘おうと思ってたり……」
「本当?」
「ああ。きっとリーネやルナも賛同してくれると思うから、その辺りについては心配いらない。ただ俺が訊きたいのは、シアがいなくなったら世界樹の守り人の役目はどうなるんだ?」
「恐らく、他の人に引き継がれる。これまで何か事情があって守り人が代わるとき、いつもそうだった。ただ引き継ぎなどで少し時間がかかるかもしれないし、他にも色々とやらなくちゃいけないこと、ある」
「…………」
どこか覚悟を決めた様子のシアを見て、トモヤはふと思い出す。
以前にシアから聞いた話によると、彼女は無理を言って守り人の役目を一身に引き受けたのだという。
それを今になって放棄するというのだから、周囲から心無い言葉を投げかけられるかもしれない。
「けど、きっと大丈夫だから」
「……そうか」
だけど。
シアの澄んだ、それでいて深みのある蒼の双眸が真っ直ぐトモヤを見据える。
その瞳と向かい合って、トモヤもゆっくりと頷いた。
今のシアならそれらの問題も解決できるだろうと。
だからこそ、トモヤにとってもシアにとっても、本当の問題とはその次にあるもので――
「それでだな、シア。その、結婚がどうのこうのって話についてなんだが」
「うん」
自分でその話題を切り出しておきながら、トモヤは気まずさを感じシアから視線を逸らしてしまう。
お付き合いを通り越していきなり結婚とかちょっと何を言ってるのかよく分からないが、シアのような美少女から好意を向けられること、それ自体は大変喜ばしいことだ。
けれど。
とても言いにくいことだけど。
それらの単語と共にトモヤの脳裏に連想されるのは、シアではなく赤髪を靡かせる“彼女”の――
――――刹那、赤が黒に移り変わる。
「――ッ」
それは本当に一瞬の、幻影にも等しい何か。
しかし、トモヤの心をかき乱すには十分すぎる光景。
「トモヤ?」
突然、驚愕の表情を浮かべるトモヤを不思議に思ったのか、シアが首を傾げながら名を呼び掛けてくる。
はっと我に返ったトモヤは、一度だけゆっくりと息を吐いた。
たった今、見えた光景。
心当たりはある。
けれど、今はまだ、蓋を閉じたままでいいはずだ。
「いや、平気だ。話の続きをしよう」
「……うん、分かった」
完全に納得した訳ではないだろうが、シアは素直に引いてくれる。
そうだ、今はしっかりと彼女に向き合わなければならない時だ。
嘘偽りを込めないことを証明するよう、真剣な眼差しを彼女に向ける。
そして、ようやくトモヤが覚悟を決めて口を開こうとした瞬間、
「トモヤは、リーネが好きなの?」
「ッ!?」
何故かそれよりも一瞬早く、シアが言った。
「お、お前、いきなり何言ってっ」
「いきなりじゃ、ない。そうなんじゃないかと、ずっと思ってた。だから訊かなくちゃって思ったから……けど、そうなんだ」
「……シア」
シアは悲しそうに視線を下に落とす。
それもそのはずだ。自分が好意を抱いている相手に他の好きな人がいたと分かれば、胸が引き裂かれるような辛い気持ちを抱いても仕方ない。
だとするならば、こんなとき自分はどんな対応をするべきなのだろうか。
トモヤは考え、そして決断する。
真摯に向き合うことの他に、正しい選択などあるはずはない。
そう思っていたからこそ。
次にシアの口から出た言葉を聞き、瞬時に理解することはできなかった。
「トモヤがリーネのこと、好きなのは分かった。うん、だから」
「ん?」
「私は、二番目でも大丈夫」
「……んん?」
言っている意味が分からないと首を傾げると、なぜかシアは両手を胸の前でぐっと握り締めて言った。
「だから、リーネが本妻で、私がその次の奥さんになるのでも、構わない」
「ああ、なるほどな――マテ」
「? ルナが二人目で、私が三人目?」
「マッテクレ」
手を翳し、シアの言葉を止める。
今、彼女はとんでもないことを言った。
「おい、それってつまり重婚ってことか? そんなことが許される訳――」
「? どうして、許されないの? トモヤは、そういった宗教の人?」
「――へ?」
重婚、それは日本育ちのトモヤからすれば、禁止されているのが当然の事柄だ。
けれどシアの反応は、トモヤの予想とは異なるものだった。まるで、この世界で重婚は普通に許されているかのような……この世界?
「なあシア、変なことを聞くようだけど、この世界じゃ重婚って禁止されてないのか?」
「もちろん。複数の人と結婚している人は、割合的には、そう多くはない。けど、世界中のどこにでも、いることはいる。はず」
「……そうだったのか」
トモヤがこれまで旅をしてきた中で、そういった人達と出会うことはなかった。
シンシアの両親も、アンリの両親も、シアの両親も、もちろん重婚はしていなかった。
しかし思い返してみれば、そもそも一人の王が国を治める君主制国家などが数多く存在するのがこの世界だ。
当然、彼らには妾などが必要になるであろうし、重婚を禁止することによって生じる問題の方が大きいはずだ。
「……視野が狭かったのかな」
旅の中で、トモヤが優先するべきはやはり、リーネやルナリアと共に過ごす時間であった。
さらに一つの国や町に滞在する時間もそう長くはなかったため、現地の人と親身になる時間もそこまで多くは取れなかった。
それ故、知ることのなかった事実なのだろう。
何はともあれ、この世界では重婚が禁止されていないのは分かった。
シアの主張が現実的であることも理解した。
だが、だからといってすぐに頷けるかどうかと訊かれれば、その答えは否だ。
確かにシアのことを好きか嫌いかで問われれば、迷わず好きだと答えることはできる。
けれど、その先に進むためには幾つかの問題がある。
その一つはトモヤ自身の常識、倫理観による問題だ。
この世界の在り方を知ったところで、それがすぐさまトモヤの考え方に影響を及ぼす訳ではない。
そして、もう一つの理由とは――
「シア」
「っ、はい」
呼びかけると、シアは彼女にしては珍しく、緊張しているのか上擦った声で返してきた。
そんな彼女に向けて、続けて言う。
「少しだけ、待ってくれないか」
「……え?」
「シアの気持ちは分かった。その気持ちへの答えを考える時間を、少しでいいから欲しいんだ」
「…………」
それは、ひどく残酷な申し出だったのかもしれない。
告白し、その答えを待つ間に感じる不安や恐怖が多大なものであることはトモヤにも想像がつく。
ただ、それでも。お互いに悔いの残らない答えを出すためには、そうするのが一番良いと判断した。
シアは視線を下ろしたまま無言を保つ。
緊張の時間が流れるが、トモヤが彼女から目を逸らすことは許されない。
ただじっと、彼女の返事を待つ。
「……よかった」
「えっ?」
すると、予想もしていなかった言葉が彼女から零れた。
「本当は、すぐに断られるんじゃないかって思ってた。だけど、トモヤは真剣に答えを考えてくれるって言った。だから、よかった」
「……シア」
普段は無表情な彼女からは想像できない程の不安げな表情のまま、そう紡いでいく。
だからトモヤもそんなシアを見て、きっと答えを出す時は彼女の想いに応えられるようにと、心の片隅で小さく呟く。
「っ、シア!」
不意に、シアの足がよろけた。
反射的にトモヤは両腕を広げ、華奢な彼女の体を受け止める。
すると、なんとシアはそのまま自分の両腕をトモヤの体に回す。
適度に柔らかい胸が力強く押し付けられる。
「シアさん?」
「ふふふ、騙された。今のはわざと」
「何だと?」
「答えを出すまでに時間がいることは分かった。ただその間、何もしないとは言ってない」
シアは顔を上げると、至近距離から満面の笑みを見せてくる。
少しだけ恥ずかしそうでいながら、それ以上の幸せが詰まった笑みだった。
「私は精一杯、トモヤに好きになってもらえるよう、努力するだけ。だからトモヤも、覚悟して」
そして彼女は、力強くそう告げるのだった。
本日はもう一話更新します。




