急転直下 5
ミラが何の感慨もなく空を見上げると、いつの間にか、空はどこまでも遠く澄みきっていた。
夜よりも深い闇に塗りつぶされていた空は、何事もなかったかのように雲一つなく、海の色に負けぬほどに青かった。
自分の意識がまるで自分のものでないような感覚に、脳が痺れる。
肉体の方は激しい動悸が心臓を打ち鳴らし、興奮が収まらないというのに、思考だけは空の向こうに飛んでいったかのようだった。
集団の生き残りは30名。
それが多いのか少ないのかはわからない。もしかすると、誰も犠牲にならない、もっといい方法があったのかもしれない。
でも、あの場にガーライルさんがいなければ――ガーライルさんに同意して犠牲になることを受け入れた人々がいなければ、ここにいる人々の数はゼロであったに違いなかった。
☆
バリケードを抜けたミラたちを迎えてくれたのはオルドモルトさんだった。
グールとの戦闘の指揮をとっていたオルドモルトさんは、ミラの顔を見ると、「よく頑張ったな」と優しく抱きしめてくれて、精根尽き果てたミラたちにグランカティオを修復している工廠のほうへと避難するように指示し、すぐに戦線に戻って行った。
グランカティオの工廠の前、聖剣の祭壇がある広場にたどり着くと、ミラたちのほかにもすでにたくさんの人が避難していて、みな不安そうにしていた。
フルーフさんが破壊した聖剣はまだ修復が終えていないのか、祭壇には布がかけられており、忘れ去られたかのようにひっそりと佇んでいる。
こんな状況だから、その剣を引き抜こうという者がいそうなものだけれど、誰ひとりとしてそんな者はいない。
ここにいる誰もが、それがただの鉄塊だということを――不安の闇を拭い去るのは、ぼろ布に覆い隠されたハリボテではないことを知っていた。
「ミラ! 無事でよかった」
リュネさんもペールエールさんと一緒に避難民のなかにいて、ミラの姿を見つけるとすぐに駆け寄ってきて、ぎゅっと抱きしめてくれた。
姉がいたとしたらこんな感じなのかもしれない。
その腕の暖かさが、じーんと痺れていた思考をゆっくりと梳かしてくれるようで、その胸に顔を埋めながらミラはしばらく目を瞑った。
そうこうしているうちに橋の上ではグールとの闘いが苛烈さを増していく。
ガーライルさんたちが逃げ切れたかどうかは……わからない。
魔法を打ち込む音と、火薬の爆発する音が空気を揺らして、ミラは震えの止まらない自分の体を、不安を紛らすために自らの腕で抱いた。
無力感に人々が表情を固くし、めいめいに警備隊の勝利と無事を祈った。
そんなおり。
「……はぁぁぁ」
ミラの隣にいた、一緒に逃げてきていた見知らぬ女性が苦しそうに息を吐き出した。大きくため息をつくようにおなかを膨らませて、空を見上げ――めまいを起こしたようにぐらりと体を揺らした。
「あの、大丈夫ですか?」
ミラがその女性を支えるために手を伸ばし、
ぬらり。
嫌な感触が手を滑らせた。
ミラが差し出した手をすり抜けるように女性は地面に倒れ伏して、ミラが驚きで目を見開いているうちに、その肉体を中心に赤い染みが広がっていく。
「ひゅー……ひゅー……」
細い呼吸は生命の終わりが近い証。
じくじくと地面に広がっていく赤い染みは、女性の生命そのもの。
バリケードを抜けるときにグールに傷を負わされたにちがいなかった。
ミラのほかに女性の容体の変化に気づいた者はまだいない。気づいたとしても、間に合わない。もうどうしようもない。
女性の瞳孔が開き、びくんびくんと体が震えだす。
「だ、ダメ……」
口からは血の泡が吹き出し、目がぐるりんと裏返る。
――グールに殺されたものは、グールと化す。
ミラの必死の懇願もむなしく、まるでチリ紙のように、女性の白い肌がくしゃりと歪んだ。
肉体が裏返るように、臓腑から黒い繊維が飛び出し、新たな肉体を構築する。苦しげだった呼吸は、蒸気が立ち上るほどに熱をもち、ねっとりとした湿気が空気を濡らした。
宝石のような硬質な眼。憎悪以外の感情がない紅蓮の瞳。
周囲の人間がグールの発生に気づき悲鳴を上げ、哀れな悲鳴をかき消すように新たに生み出されたグールは空に向かって吠えた。
「……アアアァァアアァァアアアっっ!」
グールがミラの命を刈り取るために腕を振りあげる。ミラの胴体ほどもある太い黒い毛に包まれた腕は、きっと簡単にミラの命を奪うのだろう。
だが、
「……ける……な」
悪意が圧力となって、ミラの体を叩き……その圧を受けて、ミラに生まれたのは一つの感情だった。
「ふざ……けるなっ!!」
この感情は怒りだ。理不尽な悪に対する憤怒だ。
気づくと。体の奥底から湧き上がる激情と共に、ミラは足元に転がっていた鉄棒を握りしめて、グールに向かって殴りかかっていた。
「やあああああああっ!」
グールのもつ暴力の前に、ミラはあまりにも非力だ。
力も速度もなにもかも足りない。けれど。
「アアアアァァ!?」
――魔法とは心の力だという。
ならば、この結果は偶然か、それとも奇跡か。
力いっぱいに鉄棒を握りしめた手のひらはどこまでも熱く、ミラの怒りをグールに直情的にぶつけ、よろめかせた。
いや、ミラの怒りだけでは足りなかっただろう。
この場にいるすべての者の、悪に対する怒りがミラに力を貸してくれている。そんな気さえした。
「わたしは……わたしは生きるんです。邪魔しないでください!」
ミラはわめきながら、よろめいたグールにもう一度、鉄棒を振り下ろす。
「アアアアアアアアッ!」
2度めの奇跡はなかった。
鉄棒は大きなグールの手につかまれてしまって、びくともしなくなってしまう。グールが無造作に、鉄棒をもつミラごと振り回すと、軽々と宙を舞ったミラの体は地面にたたきつけられ、一瞬息が詰まる。
でも、ミラはすぐに立った。
鉄棒はどこかに飛んでいったけれど、生まれつき備わる二つの腕さえあればどこまでも抵抗してやる、とグールをにらみつけた。
「わたしは、こんなところで死ねないんですっ!」
「アアアアアアアアッ!」
グールの腕がほんの少しだけミラの体をかする。
捻じ曲がったの爪の先っぽが、ミラの服にひっかかり、それだけで貧弱な肉体は地面にたたきつけられてしまい、目の前がガツンと真っ黒になる。息ができなくなる。
グールの足音が迫るけれど、立ち上がることはできない。闘志はあるものの、肉体がついてこない。
もはや顔を上げることすらできず、それでも屈服なんかしてやるもんか、と地面に映るグールの影をにらみつけた。
「アアアアアアアアッ!」
「……っ!!」
死の予感にミラは歯を食いしばり……しかし、体を貫くような衝撃はいつまで経ってもやってこなかった。
ミラが不思議に思って恐る恐る顔を上げると、そこには
「ミラ、無事か」
そこには白銀に輝く、優しい背中があった。
「フルーフ……さん?」
その姿を見ただけで、ミラの目からは涙があふれてしまった。
悲しくて、ではない。ただ、その背中の頼もしさに。
どうしようもない安心感が、ミラの心の奥底にあった堰を決壊させてしまった。
「うん。間に合ってよかった」
フルーフさんがグールの頭部を無造作にきゅっとつかみ、すぽーんと引っこ抜くと、グールは白い粉となって風に溶けた。
「……」
ぽかんと。
あまりにもあっけなくグールを倒してしまったフルーフさんに茫然としながら、ミラは彼がやってきたであろう方向、大橋のほうを見た。
白かった。
あれほど大勢押し寄せてきていたグールは影も形もなく、恐らくフルーフさんが通った跡なのだろう、橋の上にはグールたちの残骸であろう真っ白な粉が、溶けない雪のようにまき散らされていた。
その光景に、その場にいる誰もが唖然としていた。
たった一体。
死の象徴であるグールが、たった一体の獣にあっという間に駆逐されてしまった現実はまるで夢のようだったから。
「あ、師匠! ……大丈夫? お顔が真っ黒よ? ほら拭いてあげるからこっちにきなさい」
そんな微妙な空気のなか、なぜかフルーフさんにお姫様抱っこされていたギギさんが、ミラに駆け寄ってきて、無駄に恭しい態度で布を取り出し、ミラの顔を拭く。
「……師匠?」
と誰かが言って、ざわざわ、とこの場にいる人々がミラを見た。
すがるような視線が『この白いやつはいったい何なのだ』と、問うてきていた。
「無事でよかった。あとはぼくに任せて」
そんな衆人環視のなか、フルーフさんは視線を気にすることもなく、ミラの頭を優しく撫でてくれた。
その様子をギギさんがじとーっとした目で、
「……フルーフ、あなたってば、もしかしてロリコンなの?」
「ちょっとぉっ!? ギギさんってば、せっかくのかっこいい登場シーンに何言っちゃってんのぉ!?」
「だって、わたしにはそんなに優しくないじゃないの! 不公平よ!?」
「えー……だって、ギギさんって可愛くな……ぐぇー、喉の毛をわしゃわしゃしないで!? せっかくの名場面が台無しだよ、もう!」
「誰が可愛くないですって!? それにいま、ロリコンじゃないって否定しなかったわよね!?」
「イエスロリータ、ノータッチ!! ……いやん、ぼくをそんな目で見ないで!?」
「きゃーっ」とフルーフさんが顔を覆うけれど、誰も何も言えない。恐れと畏怖の入り混じった表情だけがフルーフさんを見つめていた。
フルーフさんは強い、と思う。
こんな……恐れと怯えの視線を大衆から向けられたなら、普通はそんなことは言えない。ミラなら悲しくなってしまうことだろう。
「そういうことだからさ。あとはぼくに任せておいて、ミラはここで避難しててほしい」
だというのに、フルーフさんは何事もなくフルーフさんのまま優しく笑った。だから、フルーフさんは『強い』と思う。
「ヤです」
だから、ミラは涙を拭いた。
フルーフさんであれば、残りのグールも簡単に退治することができるかもしれない。
それは神話のように奇跡的な出来事として語り継がれるかもしれない。
――でも。
でもそれは、人びとの心に深い爪痕を残してしまうんじゃないかと思う。
亜人としての、種族の自力ではなく、奇跡でしか対抗できなかったという事実は、奇跡が起きなければどうにもならなかったという絶望でもあるのだから。
「……ミラ?」
フルーフさんの優しい手から逃れて、ミラは歩きだした。
向かう先は聖剣の祭壇。
肉体と精神の両方が、疲労で悲鳴を上げていた。
でも、決してその足取りを乱してはならない。毅然と、確固たる意志で踏みしめなければならない。
「フルーフさん。わたしには夢ができました」
たった一体であんな数のグールを打ち倒す獣の存在は人々の目にどう映るだろう?
理解不能の畏怖は、いつしか恐怖にすらなるかもしれない。
だからこの出来事を、わけのわからない、ふわふわと宙に浮いた奇跡にしてはいけない。
「夢?」
「フルーフさんと出会ったとき、わたしは死にたくないって言いました。けど、いまは生きたい、と思っています」
じゃあ、生きるってどういうことだろう?
おうむ返しに問い返したフルーフさんに、ミラは歩きながらうなずいた。
いままで生きてきた中で、一番、生きてるな! って思った人の姿を脳裏に思い浮かべる。
それは、どこまでもお調子のりで、呑気で、そして――
この場にいるすべての人間の視線が集まる中、ミラは聖剣の前にたどり着いた。
ぼろきれで覆われた、虚飾の希望。
誰もがこの聖剣はただの鉄塊だと知っている。
剣先が溶接されて、抜けないと知っている。
「……」
ミラは黙って布を取り払った。
いまなら剣は抜けるだろう。
昨日、フルーフさんが無理矢理に、どうしようもなく出鱈目に抜いてしまって、いまは立てかけているだけのような状態なのだから。
そして、それをするのが、ミラである必要なんてどこにもないけれど。
「ミラ、それは」
フルーフさんがミラがこれからしようとしていることを察して止めようとするけれど、ミラは頭を振った。
「わたしはガーライルさんのようになりたい」
そのガーライルさんは『フルーフさんのようになりたい』と言った。
「わたしは、フルーフさんのようになりたいと願った、ガーライルさんのような人に、なりたい」
★☆
それが借り物の、さらに借り物の願望であれ、その願いは美しい。
――そして少女は剣を抜いた。
ようやくミラパート終了っ!




