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ぼくはおっぱいがもみたい  作者: へのよ
1章:小さな勇者様
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急転直下 4

「きゃあああああああああああああああ」


 (たが)が外れたような甲高い悲鳴が辺りに響く。

 観客席の片隅、妙齢の妙齢の婦人がついに恐怖に耐え切れずに、恥も外聞もなく素直な感情を吐き出し、そして――その腹から噴水のように血が噴き出した。


 鮮血の奥から真っ赤に染まった爪がにょきっと現れるに至って、ようやくミラは、リブルグールが目にも止まらぬ速さで観客席に乱入し、女性の腹に爪を突き立てたのだと理解できた。


「ああああああああああ!」


 恐怖で凍りついた悲鳴があたりに響き渡る。

 まだ死を認められぬ、と唐突な死の訪れへの否定が脳を鳴り響き、悲鳴を絶えてしまえば死ぬと言わんばかりに喉を振るわせていた。


「あっああっぁあああ!」


 ――変化は急激だった。


 まるで人形のような不自然な動きで、ギシギシと関節が暴れまわり、肉体が爆発するように膨張した。

 物理法則を無視して膨張し、むき出しになったピンクの筋肉からずるりと新たな内臓が生まれ、黒い体液がその臓物から流れ込む。

 赤い線状の光が輝きだし、それを中心に黒い毛が伸びて、あっというまにその肉塊を包み込んだ。


 ぐちゅぐちゅというくぐもった音が響く。


「……」


 一瞬の静寂。

 皆が見守るなか、グロテスクで、どこか神秘的なプロセスを経て、


「――アアアァァアアアァァァアアアッ!!!」


 リブルグールの手によって、新たに生まれた一回り小さな黒い獣――グールが産声を天高く咆哮するに至り、その場にいた者たちは夢から覚めた。


「うわあああああああああああ!」

「ひぇぇぇえええええ!」


 パニックになった群衆がいっせいに駈ける。

 中央の街壁のなかへと駆け込もうとして奥へと逃げるもの。人の少ないほうへ逃げて、なんとか逃げ切ろうというのかその逆へ駆ける者。

 そうした人びとの背中に、新たに生まれたグールが襲いかかり、また一人グールに変貌させていく。

 安らかに死ぬことも許されぬ、生命への冒涜が繰り広げられていた。


 ……ミラは。

 ミラは、その風景を見て、ただ唖然と立ちつくすことしかできなかった。

 鼻の先がしびれたように、脳が目の前の光景に対する理解を拒んでいた。

 怒声。悲鳴。あるいはほかの何かが、音が鼓膜に届いているにもかかわらず、そこから意味を拾うことができない。

 個々の単語は識別できるのだが――それを意味のある言葉に組み立てることができない。


「あ……」


 呆然と脱力した手からカップが滑り落ちて割れて、ようやく意識が現実に引き戻される。


「あ……ああ……」


 さっきまでそこにあった夢のような優しい世界は、魔法が解けたように、まったくなんの前兆も脈絡もなく、崩壊した。


 目の前では蹂躙がおこなわれ、やがて邪悪な行進は会場からあふれ出し、

 

「あああ……」

 

 ミラが無意味に呻いている間に、あっという間に数を増やしたグールたちは、ついにステージの裏にあったミラのいるブースまで飲み込もうとしていた。


 ブースのテントを切り裂いて現れたグールが、ミラを見下ろし、お前の人生に幸福など許されぬ、と言わんばかりの濁った赤い瞳が、ミラを射竦(いすく)める。


 その太い腕、ねじまがった爪はミラの簡単に命を奪うことだろう。そしてミラもまたグールと化し、この死の行進に加わるのだ。

 その圧倒的な暴力に抵抗する力などあるわけもなく、ただその振り下ろされてくる腕を見つめ――


 ごっ……!!


 鈍い刺突音。

 グールの紅蓮の瞳に突き刺さったのは、鋼の切っ先だった。


「え?」


「ミラちゃん、逃げるじゃん!」


 視界を奪われたグールが標的を見失い、わちゃくちゃと腕を振り回す横をすり抜けて、ガーライルさんがミラの手を引く。

 その手の温かさは、恐怖に(すく)んでいた足を前方へと漕ぎ出させ、ときに槍をもってグールを牽制しながら、混乱のなかを力強く先導する。


 いまだ夢を見るような、ふわふわとした心地でミラはガーライルさんの顔を見た。その表情はとても必死で。

 

「なぜですか?」


「ふっふーん。前にオルドモルトが言ってたじゃん? オレっちも昔は冒険をしてたじゃーん。これくらいの修羅場なんてお茶の子さいさいじゃーん!」


 ミラの問いに、ガーライルさんは得意げに余裕の笑み――だいぶ無理があったけれど――を浮かべた。

 でも、ミラが聞きたいのはそのようなことではなく。


「ガーライルさんは、どうしてそんなに優しくしてくれるのですか」


 きっと昔は優秀な冒険者であったのだろう。ガーライルさんの動きは素人目に見ても洗練されたもので、おそらく彼の身ひとつであれば、街壁の向こうまで逃げ切ることができるだろう。

 だというのに、どうして、こんな危険を冒してミラを助けようとするのか。


 ガーライルさんはミラの問いに「じゃじゃーん」と笑った。

 

「オレっちは兄貴のようになりたいからじゃんよー。

 兄貴はさ、自分の身が危ないときにだって見て見ぬふりなんかできないじゃん。

 誰かに『やめろ』って言われても、誰かに拒絶されちゃっても、『あ、やっちゃった。てへぺろー』って言いながら、みんなを救っちゃう。オレっちは、そんな兄貴のようになりたいじゃーん」


「それはフルーフさんだから……強いから、できることですよ」


 ――だから、あなたには無理です。

 ミラがそう言葉にする前に、

 

「うーっぷす、そうだったじゃん! てへぺろーっ、オレっちってばちょっとドジ!」


 言うまでもなくきっとわかっていることなんだろう。ガーライルさんはまたしても「じゃじゃーん』と笑うだけだった。

 ミラとつないだ手はどこまでも熱く、どこまでも力強かった。


 ☆


 ガーライルさんが選んだ避難場所は、大橋の向こうにある工業地帯だった。

 グールは水を嫌うため、一本の橋だけで陸とつながっている海の孤島である工業地帯は防衛に向いている。考えとしては妥当だろう。

 実際、ミラたちのほかにも大橋を目指している人は多く、大勢の人々が同じ選択をしたという安心感は恐怖を紛らわせてくれた。


「あの丘を越えればすぐに工業地帯への大橋じゃん。もう少しじゃーん!」


 いつのまにか集団を先導するようになっていたガーライルさんの、明るくて暢気(のんき)な声もその一助だろう。


 しかし、


「そんな……」


 丘の上にたどり着いたミラが見たのは……たくさんの立ち往生し、項垂(うなだ)れている人々だった。ミラたちと合わせて総勢50人ほどだろうか。

 彼らが向かおうとしていた工業地帯に続く大橋の中腹には、自警団が作り上げた即席のバリケードが築かれ、


「グールが、もう……」


 ミラたちが避難するよりも早くここまでたどり着いた100を超えるグールたちが、バリケードに群がっていた。

 さいわい、グールたちには橋の向こうにいる人々のみしか目に入っていないようで、ちょうど死角になった小高い丘の上にいるミラたちには気づいていないようであった。


 海を見る。

 陸と島を隔てる水面には荒波が立ち、泳ぎ切ることなど到底できはしないだろう。

 人々を収容しようとしている船も海岸線には見えるが、船が岸に近づくとすぐにグールたちが群がろうとするため窮迫していた。

 そして……後方を振り返ると、別のグールたちの集団が追いかけてきていた。

 つまり、ここにいる人々が生き残るには、目の前のグールたちの群れを突破するしかない。


 前門の虎、後門の狼。

 そんな言葉すら生ぬるい死の予感。

 どうすることもできない現実を前に、ここまで逃げてきていた人々と同じくミラはうなだれてしまった。


 そうしてどれくらいうなだれていたのだろう?


「? ミラちゃんはどうしてそんなにがっかりしてるじゃん?」


 声をかけられて顔を上げると、本気で心配そうにガーライルさんが首をかしげていた。


「どうしてって――」


「おい、ガーライル。集めてきたぞ」


 ミラの言葉を(さえぎ)るように、屈強な鬼人(ユーニー)の男性がガーライルさんに声をかける。

 声をかけられたガーライルさんはといえば、いつもの通りお気楽な感じに、じゃじゃーんと笑った。


「オッケー、んじゃ、これから5分後に」


「おう」


 いつの間にかガーライルさんの後ろには屈強な男性や、お年寄りなどが集まっていた。その手に銘々(めいめい)に石やら槍やらを持って。


「あの、これはいったい?」


「あそこのグールたちをあそこから引き離せば、ここにいる人たちは逃げれるじゃん? とっても簡単な話じゃん?」


「……は?」


 目が点になるというのはこのことだ。


「うんとね。あそこの橋に詰めかけてるグールを、オレっち達でなんとか引きはがすから、その間に頑張ってバリケードの向こうに滑り込むじゃーん。

 こっから先は自力でがんばるじゃーん!」


 どうやら、ガーライルさんはミラが茫然自失になっている間に、周りの人々を説き伏せてその段取りを整えたようだった。

 オレっち達、とガーライルさんが言った人々は十人。いずれもみな死を覚悟した目をしていた。


 ミラは悲しくなってしまった。だって、


「わたしもやります」


 なんの役にも立たないミラなんかよりも、この人たちのほうが生き残るべきだと思うから。

 でも、ガーライルさんはミラの頭をぽんぽんと優しく撫でた。


「それはダメじゃん。頑張って逃げるのがミラちゃんの役目じゃーん」


「ダメじゃん、じゃありません。

 わたしは目が見えないので逃げ切れないのです。だから、ガーライルさんのほうこそ逃げるべきでしょう」


「ミラちゃんの目が治りはじめてるのはわかってるじゃん」



 何気ないその言葉は唐突で。ミラの心に刺さっていた棘を決定的に押し込んだ。



「……え?」


 割れた風船に驚いたときのように、ぷっつりと思考が停止する。

 言葉を失っているミラに、ガーライルさんは優しく笑った。

 

「兄貴がミラちゃんに使ったアムリタは万能の霊薬じゃん。

 治癒までしかできない回復魔法と違って、失くした手足だって生えてくるって言われてるじゃん。お目めくらいは余裕に見えるようになるじゃんよ」


「……それは」


「そのことは兄貴だってたぶんわかってるじゃん」


「……。そうです……わたしは――」


 ――保護されるために弱者を装おうとした卑怯者なんです。と白状しかけた唇を。でも、ガーライルさんは軽く抑えた。


「だから、ミラちゃんはこんなところで死んだらダメじゃん。黙ってたことを兄貴に『めっ』て怒られて、治ったことをみんなから祝福されるっていうお仕事が残ってるじゃん」


「わ、わたしは!」


 嘘つきで、どうしようもなく拗ねていて。 


「それに死ぬと限ったわけじゃないじゃん。うまいこと海のほうに逃げ込む場所があればなんとかなるかもじゃん」


「わた……しは!」


 ガーライルさんに救われるほどの価値なんてない。


「ミラちゃんはお子様なんだから、誰にもはばからずぴゅーって逃げるのがお仕事じゃんよ」


「……」


 どこまでもお馬鹿なガーライルさんを前に、


「……ひっく」


 ミラは泣いてしまった。

 目が見えるようになって見えていたはずの視界は、ぐしゃぐしゃに歪んでしまって、何かを言いたいのに嗚咽(おえつ)だけが喉から絞り出される。


 たった2日。

 ガーライルさんやフルーフさんと出会ってから目にした優しい2日間は、ミラの捻くれた世界を根本から破壊してしまって……だからいまは涙しか出なかった。

 

「だから、ミラちゃんは頑張って生きるじゃんよ。 ――よーっし! いっくじゃーんっ!」


 最後もう一度、ミラの頭を撫でたガーライルさんは、準備を整えた人々とともに丘を駆け下りていった。


 彼らが橋に押し寄せていたグールたちに石を投げつけると、グールたちは新たな得物の登場に歓喜し、そのほとんどがガーライルさんたちを追いかけ、橋に残ったのは、ほんの数体のグールたちのみとなった。


 ”のみ”と言っても充分な脅威だ。

 残された人の数は約40。おそらくバリケードを抜ける間にも何人も犠牲者が出るに違いない。


「……」


 ミラは涙を拭った。


「わたしは生きたい」


 かつてフルーフさんに助けられたとき、ミラは死にたくないと言った。でもいまは、


「わたしは、生きたいと、思っています」


 そうでなければガーライルさんの意志が無駄になってしまうから。


 不思議なものだと思う。

 誰に言ったわけでもなかったけれど、言葉にしてしまえば心の奥底から、なにかよくわからない確信に満ちたエネルギーが湧いてくる。


 ミラだけではない。

 さっきまで、呆然としながら項垂(うなだ)れているだけだった集団は、ガーライルさんたちの勇気を分けてもらったかのように、一斉に橋の向こうを目指して走り出した。


「アアアァァアアアァァァアアアッ!!!」


 いっせいに向かってきた新たな獲物にグールたちが気づき、射竦(いすく)めようと雄叫(おたけ)びをあげる。

 ちょっと前なら体がすくんでいただろう。でも、ミラの足は止まらない。いや、この場にいる誰の足を止めることはできない。


「わたしはっ! 生きたいんですっ!!」


 誰もが必死だった。

 グールの腕に捕まってしまった人がいた。その人はせめて他の人が犠牲にならないようにと、グールにしがみついた。

 バリケードの奥で抵抗していた警備隊の人たちも、避難民を迎え入れようと牽制の圧力を高める。


 そうした闘いのなかをかいくぐり、ミラはバリケードの隙間に体をねじ込んだ。

ミラの目が見えるようになってきてるのって、もっと早く読者様に明かしておいても良かった気がしております。

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