急転直下 1
ミラが目を覚ましたのは昼過ぎ、太陽が一番高いところから落ち始めた時間だった。
フルーフさんが処方してくれた薬のおかげだろうか、頭痛やけだるい疲労感は完全に消えうせていて、過去に例にないほどのすっきりとした目覚めだった。
ベッドの上で半身で起き上がり部屋の窓から外を見ると、色とりどりの露店らしきものや、多くのひとが笑いながら歩く姿があって、騒々しい様子が見て取れる。
そんな賑やかな様子を見ると、はあ、っとため息が出てしまう。
「……おなか減ったかも」
ぐーっとおなかが鳴って、そういえばベッドの横に果物があったんだっけ、と掴もうとして――
「あいて」
銀色のトカゲ、フリートークがミラの額から滑り落ちた。
むにゃむにゃとそれでも惰眠をむさぼるトカゲをそっとして、起き上がって一回背伸びをしようとしたところで、
「お。ミラちゃん、ちょうどお目覚めじゃーん? 熱は……ふむふむ、下がってるじゃん」
入室してきたのはガーライルさんだった。手に持った紙袋を化粧机に置いて、ぺたりと左手でミラの熱を計って満足げに頷く。
「はい。おかげさまで元気になりました」
「そっか。それはよかったじゃん」
ガーライルさんはミラの様子が問題ないのを確認すると、椅子に座って果物をミラの口に合うサイズに切ってよこす。
赤いリンゴの皮がまだらに残った不器用なそれを、しゃくしゃくっという音とともに咀嚼すると、甘みと酸味、水分が体中をエネルギーとして廻っていくのが自分でもわかる。
「おいしいじゃん?」
「はい。とても」
当たり前のように安らかな時間。
幸せなんだけれど、何の努力もしていないのに、宝くじのように唐突に与えられた時間。
ガラス細工のような脆さも感じてしまって、心細くなってしまい、はあ、っとまたしてもため息が出てしまう。
「……どうしてフルーフさんはわたしに優しいのでしょうか」
ミラが尋ねると、ガーライルさんは不思議そうに首をかしげた。
「兄貴は誰にでも優しいじゃん? あ、もしかして優しくされる理由がなくなったら捨てられちゃうって思ってるじゃん?」
「……デリカシーが一切ないですが、おおむねその通りです。
はっきり言ってしまうとわたしは怖いのです。
フルーフさんが優しくしてくれるのは、私が弱者であるからでしょう。
そんな何の確約もない、あやふやな優しさに慣れてしまったあとに、捨てられてしまうことが、とても怖いのです」
「ふーん……。そう思う理由もわかるじゃん。兄貴は正義の味方だからね。
ミラちゃんよりもか弱い存在ができちゃったら、その子にばっかりかまっちゃってミラちゃん大ジェラシーってことじゃん?」
「……ほんとにデリカシーがないのです。でもその通りなのでしょうね」
ミラが憮然とした表情で言うと、ガーライルさんは笑って、ぽんぽんと頭を撫でた。
「正直なところを言っちゃうとじゃん? お祭りが終わって兄貴が旅立つとき、ミラちゃんはこの街で保護してもらえるように、さっきお願いしてきたじゃん」
「……保護ですか?」
「昨日会ったオルドモルトは覚えてるじゃん? アレの養子として来月から初等魔法学校に通うように手配してきたじゃーん」
「寝言は寝てから言ってください」
何言ってるんだろう?
ミラはガーライルさんの正気を疑った。
養子になるのは、まあ、いい。いや、そんな気軽なものではないけど、理解の範疇ではある。
でも、魔法学校というとアレだ。ミラだって知ってる。企業が上流階級の子弟や、魔法の才能のある子向けに開校している、すごくお金がかかる場所だ。いわゆる庶民の学校とは違う、お高いやつなのだ。
入学を希望したからって、そんなに気軽にぽーんと入学できる場所じゃないし、養子にしたからよろしくって言っても、よっぽどのことじゃない限り審査が通らないやつだ。
魔法の才能があれば特待生として無料で入学できるけれど、ミラにはそんな才能なんてない。
ミラがガーライルさんの正気を疑っていると、彼はケラケラと笑った。
「兄貴が運んできた浮遊有船に関する報奨金を全額つっこんだじゃん。余裕じゃん」
「……は?」
ミラは絶句した。
聞けば、あの白い毛むくじゃらさんときたら、ちょっと触れ合っただけの小娘のために、しばらく遊んで暮らせるだけの金額をぽーんと寄付しちゃったのだという。
「……とんでもないお人よしなのです。狂っているのです」
おおよそ、まともな感性のものではない。
思わず悪態をついてみるけれど、でも、胸の奥がチクチクしてしまう。
この感情はなんだろう?
そんなミラの様子を見て、ガーライルさんがもう一度ミラの頭を撫でた。
「ミラちゃんはさ、兄貴についていきたいじゃん?」
問われて、答えに詰まってしまう。
ミラは打算的なのだ。
フルーフさんがお金を出してくれて、この街で平和に惰眠をむさぼることができるというのなら、それが一番幸せなことに違いない。
じゃあそうすればいいのでは? と自分に言い聞かせてみると、ノー! という答えが返ってきてしまう。
ミラは頭を振った。いったいわたしはどうしたいと思っているのだろう。ぐちゃぐちゃになった心が解を求めるけれど、その答えはどこからも出てこなくて、心が千々に乱れてしまう。
「……よくわからないのです。でも、あっさりと手放してもいい程度の存在と思われるのは悔しい、そんなところではないでしょうか」
それでも、ぐちゃぐちゃになった胸の内を口に出すと、ちょっと腑に落ちた。
これはきっとプライドの問題なのだ。
お母さんたちはあくまでも”お金をもらって”ミラを手放したというのに、フルーフさんはお金を払ってまで離れようとしているのだ。
そんなことがミラのプライドとして許せるだろうか。いや許せぬ。
ガーライルは「なるほど!」と何かしら納得すると、さっき置いた紙袋をがさごそとあさりだし、何かを取り出した。
「あの……何をなさっているのでしょうか?」
「うん。そう思うなら努力しなきゃダメじゃん? 何もしないで待ってても誰かの一番星にはなれないじゃん? だから、ちょっとお兄さんとお出かけしようじゃん?」
答えになってない。
そう思ったけれど、最近そういうフルーフさんやガーライルさんの強引さというのも別に悪い気分じゃなくて。
「はい。では、そうしましょう」
思いのほか、素直にそんな言葉が出た。
★☆
ガーライルさんが渡してくれた新品の可愛らしい服に着替えて、手を引かれるまま外に出ると、すぐにお祭りの喧騒が圧力となって肌を叩いた。
「こっちじゃん」
そんななかを、ガーライルさんは手をひっぱって一直線にどこかに向かって、やがて一軒のお店にたどり着く。
店内にはアルコールの匂いが空気のなかに残っていて、怪しい光があたりを照らしている。
店のなかはお祭りの最中だというのに薄暗く、ミラが不安げにきょろきょろと見回していると、
「あーら、ガーライルちゃん。お久しぶり。
あらあら! そんなにちっちゃい子連れてきてどうしたの? もしかしてあなたのお子さんかしら?」
声をかけてきたのは、しわがれた声の大柄なお姉さん(?)だった。
ミラが思わず戸惑っていると、ガーライルさんが慣れた様子でお姉さんに話しかける。
「ママ! この娘にお化粧してやってくれじゃーん!」
ガーライルさんが他人の話をあんまり聞かないのは、どうやらミラのときだけではないらしい。でも、ママと呼ばれた毛深いお姉さん(?)は、あきれ混じりに「まったく、あなたはいつもそうね」と嘆息した。
彼女はミラに顔を近づけると、品定めをするようにじろじろと観察してくる。その顎にはうっすらとヒゲが残っていて、ガラガラとした声はアルコールで焼けただけというわけでもないだろう。
「なーに? ガーライルちゃん、あなたの隠し子? ……ふーん。なるほどね。素材はかわいいけど、表情がブスっとしてらっしゃる。
ま、いいわ。やったげましょう」
「誰がブスですか」
「あなたよ、あ・な・た。そう言われたくないなら、ちょっとは笑いなさいな。ほら『にこー!』」
強引に口の端っこをつかまれ、有無を言わせず縦縦横横斜め書いてちょん!
「痛いのです」
「ほーら、笑わないともう一回いくわよ――「や、やります! やりますから!」
笑わないでいたら、また口の端っこを捕まえられそうになったので、慌てて自分で口の端っこを押さえる。
「に、にこー」
いつぞやフルーフさんにも見せた、我ながら会心の笑顔。
これならどんな大人もイチコロである!
だっていうのに、
「んまっ!!! ……あなたねえ、売れない商売女でもいまどきそんな能面みたいな顔しないわよ。ほら、もう一回!」
「なんと」
まったく通じなかった。お姉さんがまた頬っぺたを捕まえようとするので、それに先んじてもう一度笑顔。
「にこー」
「ぜんぜんダメね」
おかしい。いままでこの笑顔でミラは生き延びてきたというのに。作り笑いが通じないのは、あの銀色のトカゲに続き2人目である。
そして笑顔テイク3。
「にこー!」「まだよ! あなたならもっとやれるわ!」「にこー」「もっとよ、もっと熱く!」「にこぉっ!!」
・
・
・
「にこぉ……」
いったいどれくらいにこにこしただろう……。
お化粧が終わる頃にはミラは疲労困憊。お人形のように為すがままにされていた。
「はい! お化粧はお終いよ。ほら鏡を見なさい。美人が映ってるわ」
にこにこ言ってるうちに、毛深いお姉さんはいつのまにか、ミラの顔に落書きするように赤や白の色を載せ終わり、仕上げとばかりにパンっと手を叩いて鏡を見せてくれる。
薄らとしか見えないので、触れるほどに顔を近づける。そこにはとても可愛い女の子がいた。
自分でも驚いていると、お姉さんが優しく語りかけてくる。
「いい? 良い人生の条件っていうのはね、どれだけ笑顔が可愛いかってことよ。性別、種族にかかわらずね。あなたが幸せになりたいっていうなら、もっと可愛い笑顔を身に着けなさい」
「にこぉ……」
いいことを言ってるんだろうけど、疲労困憊のミラとしてはただ漫然とうなずくのみであった。
「うひゃひゃ! ミラちゃんってば『にこーにこー』ってバカみたいじゃーん!」
諸悪の根源であるガーライルさんが手を叩いて大爆笑していた。超むかつく。
しかもミラが黙っていると、
「でも、初めに比べるとだいぶん可愛くなったじゃんよー」
なんて失礼なことまで言ってくる。
だいたい、初めと比べてなんて言うけれど、出会ってからまだ1日とちょっと。しかも、ほとんど一緒にいた時間なんてなかったのに何がわかるというのだろう!
「……そんなことあるわけないじゃないですか」
ミラは鏡に映る自分の顔をもう一度見てみる。
いつもどおりの、頑固な感情がこびりついた顔のはず――
「変わった、ですか? まさかですよ、そんなことあるわけないです。あははっ、ウっけるー」
「完全に毒されてるじゃん!?」
あわわ、なんてこったい。
たった1日で、自分の積み上げてきた頑固な意思が崩壊しようとしている!
「ジョ、ジョークなのです! はい! ここで、この話は終わりなのです!」
強引に話を打ち切り、取り繕うと、またしてもガーライルさんは大爆笑した。
いったい何が面白かったというのだろう。ミラがプクーっと頬をふくらませると、
「まあ、いいや。んじゃ、さっさと次の場所に行くじゃーん。ママ、ありがとー!」
「はいはい。どういたしまして」
礼もそこそこに、ガーライルさんがミラの手を引いて店の外に向かおうとして――ミラはちょっとだけその力に抵抗し、お姉さんのほうに振り向き、頭を下げた。
「あの……どうも、ありがとうございました」
「フルーフちゃんっていう人はとってもいい人なのねえ。ねえ、ミラちゃん。今度お店に連れてきなさいな」
「……はい。きっとあなたと気が合うと思います」
ミラはこの店のなかで、フルーフさんとお姉さんが楽しそうにお話している光景を思い浮かべた。
彼はどんな表情でこのお姉さん(?)と話すのだろう。想像すると、思わずクスリと笑いが漏れた。




