93 来るんだ……その時が…。
店長が作った湯気立つパスタの匂いが、
ほのかに店内を満たしていた。
その温かさが、さっきまでの不気味な空気を少しだけ和らげてくれていた。
「美味しいなぁ、店長のパスタ。」
「こういう時は、ちゃんと食べて体力つけなきゃね。」
そんな、どこか日常のような会話が交わされていた。
だが、その裏側では、
いつ始まるかわからない恐怖に、
ひなも店長も心の底で怯え続けていた。
夜が深まるにつれて、
店の窓ガラスに写る外の闇が、じわじわと店内に入り込んでくるように見えた。
その時だった。
カチッ。
テーブルの上で、小さな音が響いた。
美歌さんがフォークを置いた。
置いた、というより――
まるで何かに反応して“勝手に手が止まった”ような、そんな不自然な動き。
美歌さんは微動だにせず、
そのまま一点をじっと見つめていた。
ほんの数秒なのに、
店の空気が急に冷え込んだように感じる。
「……美歌さん……?」
思わずひなが小さな声で問いかける。
すると、美歌さんはゆっくりとまばたきをして、
まるで自分以外の何かが語らせているかのように静かに言った。
「――そろそろね。始まるから。」
その声は落ち着いていた。
けれど、その言葉の奥には、
“確実に来るもの”を完全に理解している者の冷静さと緊張があった。
ひなと店長の背筋がぞくりとした。
「ひなちゃんと店長さんは……シュウくんの近くにいて下さいね。」
そう言われて振り返ると、
テーブルの上で眠るシュウの胸が静かに上下していた。
しかし、その寝顔はどこか苦しそうで、
さっきよりも影が濃く見える。
まるで――
“何かが近づいている”のを、本人だけが感じ取っている
そんな表情だった。
店の外の暗闇がぐっと濃くなったような錯覚。
風が吹いたわけでもないのに、
ガラスがわずかに震えたような気がする。
店長がごくりと唾を飲む音がやけに響いた。
ひなは自然と息を潜め、
胸の鼓動が耳の奥でうるさいほど鳴り始める。
ついに――
本当に“来る”んだ。
そんな予感が、
全員の心に冷たい手を添えたように広がっていった。




