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92 許さない…


影は部屋へ入り込むと、ゆっくりと揺れながら奥へ進んだ。

まるで部屋の空気そのものをかき乱すように、

温度が一気に下がり、薄暗い部屋の隅々まで冷気が広がっていく。


影は一瞬立ち止まり、

そこから“何か”を探すように左右へゆっくりと頭を巡らせた。


その動きに合わせて、影の輪郭がじわじわと膨らみ、

黒いもやが重なり合って、何かの形を作り始める。


ぼんやりとしていた輪郭が徐々に固まり、

肩、腕、首、そして――顔の位置にあたる場所へ黒が集まっていく。


影は“人間の形”へと変わりつつあった。


しかし、それは人間を真似た“何か”にすぎない。

皮膚も、目も、口もない。

黒く沈んだ穴のような表面に、ただ人型の構造だけがぬらりと浮かび上がっていく。


部屋の空気がじっとりと重くなった。

まるで酸素が薄くなるような圧迫感が漂い、

そこに誰かが潜んでいるという確信を、影自身が嗅ぎ分けているようだった。


そして、口もないはずなのに――

その“人の形”は、突然、叫んだ。


「どこ……?」


その声は、空気を震わせるというより、

頭の中に直接響くような異様な声だった。


影は次の瞬間、激しい動きで部屋の中央へ飛び出した。

腕らしき部分を振り上げ、

壁、棚、テーブルへ次々と視線のない顔を向ける。


「どこ……どこにいるの……

 隠れても無駄よ……!」


声はヒステリーじみて高く、

部屋中に反響しながら震え続ける。


叫びは徐々に甲高く、狂気じみていき、

耳を塞ぎたくなるほどの不快な周波数を帯び始めた。


「どこなのッ!

 いいから――出てきなさい!!!」


叫び声とともに部屋の電気がバチッと瞬き、

影の形がさらに歪みながら膨張した。


そのたびに壁に取り憑くような冷気が走り、

そこに“なにか”が確実に狙われていることだけが、

痛いほどはっきりと伝わってくるのだった。


「……もう少しだったのに……」


その影は、部屋の中央でぴたりと立ち止まった。

怒りで震える声が、壁に反響して不気味に揺れる。


「誰……? 誰が……邪魔をしているの……」

「許さない……絶対に、許さない……」


影の形がゆっくりと膨らみ、

ぼんやりとした輪郭の中に“人の姿”が浮かび上がっていく。


髪、肩、腕――

そして次第に、顔が。


ようやくその姿がはっきりしてきた瞬間、

影はふいにこちらを振り返った。


それは――

先日シュウが見た、あの男の子の“優しいお母さん”の姿だった。


しかし、その表情は一瞬で崩れはじめた。


頬が裂けるようにして口がぐいっと横に広がり、

まるで皮膚が耐えきれず裂けてしまうかのように。


目は血走り、赤く細く吊り上がり、

人間の感情では説明できない“憎悪”だけで満ちていく。


息を吸うたびに、

喉奥から獣のような唸り声が漏れた。


「今夜……必ず……シュウくんを“もらい”に行くわ……」


その言葉の一つ一つが、

部屋の空気を刺すように冷たくした。


鬼の形相へと変わり果てたその“母親”は、

ゆっくりと扉へ向かい、

まるで黒い風に溶けるように、輪郭を崩しながら近づいていく。


扉の前に立つと、一度だけ僅かに振り向いた。


裂けた口が、不自然なほどに大きく開く。

笑っているのか、泣いているのか、

人ではない何かが零れ落ちそうな表情。


「――待っていなさい……」


その声を最後に、

影は扉の隙間へと吸い込まれるようにスウッと消えていった。


残された部屋は、

まるで“息を潜めている”かのように静まり返っていた。

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