91 真の始まり
外の窓に目をやると、いつの間にか街の色がすっかり夜の深みに溶け込んでいた。
さっきまでかすかに残っていた夕焼けの名残も消え、店の外は静かに闇へと沈んでいく。
その様子を確認した美歌さんが、ふっと柔らかく息をつく。
「もうすっかり日が暮れたわね。…もう少しで始まるから、ひなちゃんも店長さんも、気持ちを少し楽にして、その時を待ちましょう」
語りかける声は、まるで日常の延長線にあるかのように落ち着いていて、
これから“何か”が起きる気配を微塵も感じさせないほど穏やかだった。
しかし、その言葉とは裏腹に――緊張しているのは私と店長だけだった。
私の胸、さっきからドキドキしてる。
手のひらはじんわりと汗ばみ、コーヒーカップを持つ手がかすかに震えていた。
隣を見ると、店長も同じように落ち着きなく指先を組んだり解いたりしている。
一方、美歌さんだけは、まるで今日の出来事がすべて当たり前かのように、どこか余裕さえ感じる表情で佇んでいた。
眉ひとつ動かさず、静かで、揺るぎなく、そして何より私たちを安心させようとしているかのような空気を纏っている。
その落ち着いた姿を見るたび、
「本当にこの人は霊の存在と向き合っているんだ」
そんな現実感が、胸の奥でゆっくり重みを増していくのだった。
夜はもうすぐ本格的に訪れる。
そして――“その時”も、確実に近づいていた。
その頃、まったく別の場所では――。
静まり返ったアパートの廊下に、
規則的なのに妙に湿ったような音が響き始めた。
コツ… コツ… コツ…。
誰かが歩いている音のはずなのに、
その足音には“重さ”がなかった。
まるで空中から落ちてくる水滴のように、
ひどく軽く、いやなほど不気味に響く。
蛍光灯の明かりはちらちらと瞬き、
廊下の空気だけが他よりひんやりしている。
人影はどこにもない――
はずだった。
だが、アパートの一室の前に、
いつの間にか“黒い影”が立っていた。
ぼんやりとした輪郭。
人の形には見えるのに、顔がどこにもない。
ただ、黒いもやが人型にまとわりついたような、
“存在”としか呼べないなにか。
それは扉を見つめているようで、
けれど目がないのだから、見ているはずがない。
見ていないのに、気づかれているような、
そんな圧が扉の向こうへじわりと染み込んでいく。
そして――
影はゆっくりと、まるで煙が風に流されるように形を変え、
扉の縁へと近づいた。
触れてもいないのに、扉の表面がかすかに震え、
金属部分が冷たく曇ったように白くなる。
次の瞬間、影はスウッと細く伸びていき、
一筋の黒い靄となって扉の隙間へ滑り込んだ。
吸い込まれるように、抵抗も音もなく。
ただ、静かに。
あまりにも静かに。




