90 本番
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本番
店長が静かに立ち上がり、
いつもの落ち着いた声で私たちに向かって言った。
「コーヒーでも淹れます。
ひなちゃんも美歌さんも、そこに座っててください。
状況を見ながらでいいから、ちょっと一息入れよう。」
その言葉が、張り詰めていた空気をふっと和らげてくれたようで、
私も自然と「はい……」と返事をしていた。
店長が豆を挽く音が心地よく響く中、
私はカップや受け皿を並べて手伝いながら、
店長がぽつりと、少し照れくさそうに言った。
「ひなちゃんは偉いなぁ。」
「え? なんでですかぁ〜?」
思わず笑って聞き返すと、
「だって……好きな人のために、怖がらずにここまでやってるだろ。
普通、なかなかできないよ。」
その言葉に胸が熱くなった。
だけど、私は首を横に振ってしまった。
「こ、怖いに決まってますよぉ……!
体験した事ないし……むしろ怖すぎるくらいですよ……」
「確かにな。」
店長は苦笑しながら、深く頷いた。
そんな何気ないやり取りの中で、
出来上がったばかりのコーヒーの香りがふわりと立ち上がり、
ほんの少し、現実に戻ってきたような感覚になった。
店長、美歌さん、私の三人は
温かいカップを手にしながら、
ゆっくりと椅子に腰を下ろした。
そこで美歌さんが、改めて真剣な表情になる。
「これからが本番よ。
ひなちゃん、店長……いい?
今夜は“絶対に”扉を開けちゃダメ。
呼ばれても、声がしても、誰かが叩いても。
絶対に、どんな理由があっても開けないこと。」
その声音には、いつもの柔らかさはなく、
一瞬で背筋が伸びるような力強さがあった。
「きっと……不浄霊が現れるわ。
でも心配しなくていい。
この店の中にいれば、絶対に安全だから。」
美歌さんはそう言って、
窓、扉、厨房の裏口――ひとつひとつに
見えない“結界”を貼るかのような動作で
手を軽くかざしていった。
その所作には、素人の私でもわかるほどの
真剣と、経験と、力が宿っていた。
「全部の入り口、閉じたわ。
ここはもう、外よりずっと守られている場所よ。」
そう言う美歌さんの声に、
私も店長も無意識に息を飲んでいた。
それからの時間は、
静かで、長くて、どこか胸がざわつくようなものだったが――
三人でコーヒーをゆっくりと飲みながら、
訪れる“その時”を、確かに覚悟しながら
じっと待ち続けたのだった。




