82 憑依
美歌さんは、アイスコーヒーのグラスをそっと置くと、
私と店長の顔を一度ゆっくり見渡し、まるで「覚悟はいい?」とでも言うように静かに息を吸った。
その瞬間、店内の空気がふっと変わった気がした。
そして、落ち着いた声で語り始めた――
⸻
「多分だけど……シュウくんには“霊”が憑依しているの」
美歌の声は静かなのに、ひとつひとつの言葉が胸に響くほど重かった。
私も店長も反論するどころか、呼吸すら忘れてしまいそうだった。
「きっかけはね……ひなちゃんが話してくれた“鎌倉のお屋敷”。
あの場所で、間違いなく彼は“何か”に触れてしまったのよ」
鎌倉のお化け屋敷――
昨日ひなが話した、友達の不思議な回復と、迷い込んだというあの古い屋敷。
その言葉が出た瞬間、私は背中にぞわりと寒気が走った。
「そこで“憑依”されたの。
ただね……こういう霊は、普段は姿を見せないの。
昼間は潜んで、夜だけ表に出てくるタイプ」
美歌は指先で「昼は静か、夜は活発」とでも言うように、
軽く波を描くような仕草をした。
その動きさえ、妙に説得力があった。
「だから……夜になると、シュウくんの体を少しずつ蝕んでいく。
痩せるのも、顔色が悪いのも、全部“それ”のせい」
私は息を呑んだ。
店長も腕を組み、眉をひそめながら何度も頷いていた。
「じゃあ……どうすれば……」
ひなの声は、震えていた。
美歌はそんなひなに、優しく微笑んだ。
けれど、次の言葉は衝撃的だった。
「夜にね、一緒に居てあげればいいの。
霊が憑依しようとするときに邪魔すれば、そのまま離れていく。
“力ずく”じゃなくて、存在を寄せつけないようにするのが一番効果的なの」
まるで“体温を奪おうとする手を払いのけるだけでいい”と言うような簡単さで……
でも、その内容は常識では考えられないことばかりだった。
「だから、今夜――シュウくんの家に泊まり込んで、
浄化をするつもりでいるわ」
それはあまりに重大で、あまりにも現実離れしていて……
でも美歌が言うと、なぜか“本当にそうなんだ”と思えてしまうほどの迫力があった。
⸻
私も店長も、しばらく声が出なかった。
目を見開いたまま、ただ呆然と美歌の言葉を受け止めるしかなかった。
アイスコーヒーの氷がカランと鳴る音だけが、
静まり返った店内に小さく響いていた。




