81 アイスコーヒー
「今日はカウンターでいいかしら?」
美歌が穏やかに問いかける。声は落ち着いているのに、どこか空気が柔らかくなるような響きを持っていた。
「はい、こちらにどうぞ」
ひなは軽く会釈をして、カウンターの中央あたりの席を手で示した。
美歌は静かに頷くと、椅子を引いて腰を下ろした。その動作一つひとつがゆっくりで、落ち着きがあった。
店長はそれを見て、「少し待っててね」と言いながらバックルームへと姿を消した。
すぐにグラスの触れ合う音、氷の鳴る音が小気味よく響く。
その間、ひなは何も言わずに美歌の隣に立ち、ただその背中を見つめていた。
美歌の横顔は、どこか遠くを見ているようで――まるで何かを感じ取っているようにも見えた。
やがて店長が戻ってきた。
手には、冷たく曇ったグラスに注がれたアイスコーヒー。
ゆっくりとカウンター越しに差し出すと、静かに言った。
「これは俺の気持ちです。どうぞ、召し上がってください。
そして……シュウのこと、よろしくお願いします」
その言葉には、職場の上司としてだけではなく、
一人の人間として――家族のように彼を想っている気持ちがにじんでいた。
美歌は少し驚いたように目を瞬かせ、それからふっと微笑んだ。
「ありがとうございます。では、遠慮なくいただきますね」
彼女は両手でグラスを包み込み、ひと口ゆっくりと口に運ぶ。
氷がカランと鳴る小さな音が、店内の静けさに溶けていった。
「……美味しい」
微笑みながらそう言った美歌の顔は、
ほんの一瞬だけど、どこか別の世界の光を帯びたように見えた。
その穏やかな言葉に、店長も、ひなも、ほっとしたように息をついた。
「シュウくんは、まだ帰ってきてないの?」
美歌が穏やかな声で尋ねた。
その声には、どこか優しさと、状況をすべて理解しているような落ち着きがあった。
「はい……まだです。」
ひなは俯きながら答えた。
心のどこかで「早く帰ってきてほしい」と思いながらも、今のシュウの姿を見てしまうのが怖い――そんな複雑な気持ちが入り混じっていた。
「そう……じゃあ、今のうちに軽く説明しておきましょうね」
美歌は静かに言葉を続けた。
まるでこれから始まる話を、慎重に選びながら進めていくようだった。
すると、後ろで店長が「ちょっと待って」と短く声をかけ、ゆっくりと店の扉の方へ歩いていった。
その姿を不思議そうに見つめていると、カラン、と小さな音を立ててドアの上に掛かったプレートが“OPEN”から“CLOSE”に裏返された。
「店長、いいんですか? これからお昼で忙しくなるのに……」
ひなは慌てて声をかけた。
こんな時間に店を閉めるなんて、今まで一度もなかったから。
店長は小さく息を吐いて、カウンター越しに2人を見た。
その目は、いつものように優しいのに、どこか真剣だった。
「いいんだよ。……シュウくんが絡んでる話だからな。
ふざけ半分じゃ聞けない。ちゃんと、向き合わないと」
その言葉に、ひなの胸の奥がじんと熱くなった。
思わず小さく呟いた。
「……店長……」
その声はかすれていたけれど、
そこには尊敬と、感謝と、そして“守られている”という安心感が滲んでいた。
美歌はそんな2人のやり取りを静かに見守りながら、
「じゃあ、始めましょうか」とゆっくり頷いた。
その一言で、空気がすっと引き締まった――まるで、店内の温度さえ変わったかのように。




