80 安心感
店長は腕を組んだまま、しばらく沈黙していた。
その表情は、いつもの軽い冗談混じりの顔ではなく、どこか深刻な色を帯びていた。
「……無いとは言えないもんな」
ぽつりと漏れたその言葉は、妙に重たく響いた。
「ひなちゃんが心配なのはわかるよ。俺も……正直、気になる。あいつ(シュウ)の顔、昨日からおかしかったしな」
店長は目を伏せ、ゆっくりと息を吐いた。
「で、その“美歌さん”って人は……わかるのか? って言うか、見えるのか? そういうのが」
ひなは一瞬、視線を宙にさまよわせながら、
手の指先をいじるようにして答えた。
「わからないです……。でも……全部、見通してるみたいで」
言葉を口にしながら、自分でも信じられないように小さく首を振った。
「最初に会ったときから、なんか不思議だったんです。
私たちが付き合ってるのも、何も言ってないのに知ってて……
“店長も知ってるから、早く言いなさい”って……笑いながら言うんです」
その“笑いながら”という言葉を口にした瞬間、
ひな自身の声が少しだけ震えた。
思い出すたびに、あの美歌の目が、
まるで全てを見透かしているようで――怖いような、安心するような、
説明のつかない感覚を呼び起こした。
「……なんだそれ」
店長は眉を寄せ、腕を組み直した。
「そりゃ、普通じゃないな。ひなちゃん……その人、本当に何者なんだ?」
「わからないです。
でも、悪い人じゃないと思うんです。
話してると、不思議と安心するっていうか……。
でもその安心も、なんか底が見えないっていうか……」
店長はしばらく無言でひなの話を聞いていた。
店の時計の針の音だけが、静かに響く。
「……そうか」
ようやく店長がつぶやくように言った。
「だったら、その美歌さんに頼ってみよう。
俺もな、正直あいつの顔、昨日から気になってた。
病院でなんでもないって言われても、そういう“目に見えないもん”なら……医者じゃどうにもならんかもしれん」
ひなはその言葉に、小さく頷いた。
でも、その頷きの奥には、まだ拭いきれない不安があった。
――“全部見通してる美歌さん”
その存在が、心強いようで、どこか怖くもある。
店長の真剣な表情と、ひなの胸に広がるざらついた不安が、
空気の中に溶け合うように、静かに流れていった。
そのときだった。
カラン……と、店の扉についた小さなベルが鳴った。
静まり返っていた店内に、その音がやけに鮮やかに響いた。
「いらっしゃいませ!」
ひなは反射的に声を上げたが、その声が途中で止まった。
扉のところに立っていたのは――微笑みを浮かべた美歌だった。
柔らかな光が差し込む入口に立つ彼女の姿は、まるで空気そのものが少しだけ違う温度を持っているように感じられた。
白いブラウスの袖口がゆっくり揺れて、
そのたびに、店の中の空気まで静かに波打つように思えた。
「店長、今話していた……美歌さんです」
ひなは少し緊張気味に紹介した。
その声には、どこか誇らしさと安心が混じっていた。
店長はカウンター越しに姿を見て、すぐに立ち上がった。
「……あぁ、あなたが。いつも来てくださっている方なんですね」
言葉を選ぶように、丁寧に頭を下げた。
「今、ひなちゃんから軽くお話を伺いました。
どうか……シュウくんのこと、よろしくお願いします」
そう言って、店長はさらに深々と頭を下げた。
その仕草には、言葉では表せないほどの真剣さと優しさがにじんでいた。
その光景を見た瞬間、ひなの胸が熱くなった。
――こんなに真剣に、あのシュウのことを心配してくれている。
ただの上司と部下の関係じゃない。
まるで家族みたいに、温かく包み込んでくれるその優しさが、
胸の奥にじんわりと広がっていった。
ひなは小さく息を吸い込みながら、
目の前の二人――落ち着いた表情の美歌と、真摯に頭を下げる店長――を見つめた。
どこか現実と夢の狭間に立っているような、不思議な安心感と緊張感が入り混じるその瞬間、
彼女の中で“何かが動き出す前の静けさ”が、確かに流れていた。




