79 幽霊
「店長、すみません……」
ひなはバックルームから出てくると、少しためらいがちに声をかけた。
その声には、どこか張りつめたような響きがあり、
いつもの明るい調子とは明らかに違っていた。
「ん? 大丈夫だったの? 要件は?」
店長はコーヒーを片手に、彼女の様子をちらりと見た。
だが、その一瞬で何かを察したように、
眉をわずかにひそめて、カップをカウンターに置いた。
「はい……あの、店長。少しお話があるんですけど……いいですか?」
ひなは言葉を選びながら、
それでもどこか覚悟を決めたように店長の目を見つめた。
その瞳には、心の奥に渦巻く不安がそのまま映っているようだった。
「おぉ、いいよ。今日は暇だし、ここで聞こうか。
でもお客さん来たら、そっち優先な」
店長はそう言いながらも、
腕を組んでカウンターの前に立ち、ひなに向き直った。
彼の表情には“何かただ事ではない”と悟った気配があった。
「はい……ありがとうございます」
ひなは小さく頷き、指先をぎゅっと握りしめた。
言葉を口にする前に、何度も深呼吸をした。
けれど呼吸を整えようとすればするほど、
胸の奥のざわつきが強くなっていく。
その様子を見て、店長は少し身を乗り出した。
「……どうした? ひなちゃん、顔が真っ青だぞ」
「えっと……その……」
言いかけて、ひなは言葉を詰まらせた。
“どこから話せばいいんだろう”
“信じてもらえるだろうか”
そんな思いが頭の中を駆け巡り、
視線が床と店長の顔を行ったり来たりする。
店長はそんな彼女の揺れる瞳を見つめながら、
小さくため息をついた。
「シュウくんのことか?」
その名前が出た瞬間、ひなの肩がピクリと震えた。
「……はい」
ようやく、か細い声で答えた。
店長は腕を組み直しながら、
「やっぱりな…。
話してみな。何があった?ちゃんと聞くから」
と、いつになく真剣な声で言った。
「実は……」
ひなは、胸の前でそっと両手を重ねながら、
一度小さく息を吸い込んだ。
そして、ためらうように目線を下げたまま、
震える声で言葉を続けた。
「実はシュウくん、何か……ついてるかもしれないんです……」
その一言に、店長の動きがピタリと止まった。
「……何がついてるの? 別の女の子とか?」
わざと軽く笑ってみせたが、
その声にはどこか本気で“違う何か”を察している響きが混じっていた。
「違いますよぉ〜」
ひなは慌てて手を振りながら、必死に否定した。
「そうじゃなくて……“ゆうれい”なんです」
「ゆ、幽霊?」
店長の眉がぴくりと動き、口角が引きつる。
「嘘〜……」
と言いながらも、冗談めかした声の裏には、
明らかに“本当にそうなのかもしれない”という戸惑いがあった。
「でも、ひなちゃんが言うんなら……信じるぞ」
そう言って、少しだけ柔らかい笑みを浮かべた。
ひなはその言葉に、ほんのわずか安心したように見えた。
けれど、その安堵の表情は一瞬で消え、
また不安の色がその瞳に戻ってきた。
「ひなも最初は、全然わからなかったんです。
でも……お店に来たお客さんが、“私たちに呼ばれた気がした”って言ったんです」
ひなはゆっくりと思い出すように言葉を選んだ。
「その人……“美歌さん”っていうんですけどね」
「美歌さん?」
店長は腕を組み直しながら、興味と不安が入り混じったような声を出した。
「うん」
ひなは小さく頷いた。
「昨日、その人に会ったんです。
全部、わかってるみたいな人で……。
今日も、もう少ししたらお店に来てくれるって。
さっき電話したんです」
店長はしばらく黙ったまま、
カウンター越しにひなの顔をじっと見つめた。
その視線には“半信半疑”というより、
“信じたいけれど信じるのが怖い”――そんな複雑な色が浮かんでいた。
「……なるほどな」
低くつぶやくように言いながら、店長は目を細めた。
「なんか、ひなちゃんの言葉って、冗談に聞こえないんだよな……」
ひなは唇をきゅっと噛みしめ、
「私も……怖いです。でも、放っておけなくて……」と、
涙をこらえるような表情でうつむいた。
店長はそんなひなを見て、
「わかった。もしその“美歌さん”が来たら、ちゃんと話を聞こう」
と、真剣な声で言った。
その瞬間、ひなの胸の奥にあった不安が
ほんの少しだけ軽くなった気がした。
それでも、心のどこかでは――
“何かが、もう動き出してしまっている”という
説明のつかない恐れが、静かに広がっていた。




