77 落ち着いて……
「美歌さん……シュウがおかしいんです」
ひなの声は震えていた。息を整えようとしても、喉がつまって言葉が途切れ途切れになる。
電話の向こうから、美歌の落ち着いた声がすぐに返ってきた。
「ひなちゃん、どうしたの? シュウくん、やっぱり変だった?」
その声音はまるで、すでにすべてを知っているかのように静かで、
そして不思議なくらいに安心感を与える響きを持っていた。
だけど、その冷静さがかえって怖かった。
まるで“これから起こること”を、美歌だけが正確に理解しているようで――。
「はい……昨日よりも、酷くやつれてて……
「ひなちゃん、多分ね……それは“暗示”にかかっているのよ」
美歌の声は、静かで、それでいて妙に胸の奥に響いた。
その一言が放たれた瞬間、ひなは思わず息をのんだ。
“暗示”――。その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
「わかりやすく言えばね、催眠術のようなもの。
自分の姿を本来と違うように見せられているのよ」
電話越しの美歌の声は、まるで遠い場所からひなの心の奥を覗き込むようで、
その口調には一切の迷いがなかった。
まるで、すでにすべての出来事を見てきたかのように、
確信に満ちた“知っている人”の声だった。
「そ、そんな……催眠術って……テレビとかの、ああいうやつですか?」
ひなは混乱しながら問い返した。
頭の中では“非現実的”という言葉が何度も浮かんでは消えた。
だけど、あのシュウの異様な姿を思い出すと――
もう、普通の病気や疲れでは説明がつかない。
何か、もっと違う“見えない力”が働いているとしか思えなかった。
美歌はひなの動揺を見透かすように、
少しだけ優しい息を混ぜながら言葉を続けた。
「落ち着いて、ひなちゃん。怖がらなくていいの。
いい? 今、あなたができることは一つだけ。
その“見えている現実”を、彼に見せること。
彼の目は、今は真実を見ようとしても“見せてもらえていない”状態なの。
だから――写真を撮って、見せてあげて。
そうすれば、きっと何かが変わるから」
その声は、優しいのに、絶対的な力を帯びていた。
まるで、美歌の言葉そのものが“指令”のように、
ひなの胸の奥に染み込んでくる。
「……写真を、撮って……」
ひなは小さくつぶやいた。
手がわずかに震えている。
胸の鼓動が速くなっていく。
でも、なぜかその中に――ほんの少しだけ、
“この人なら本当に何とかしてくれる”という不思議な安心感もあった。
美歌は最後に、穏やかな声で言った。
「ひなちゃん、大丈夫。
私はもう、全部わかっているから。
あなたはただ、彼のそばにいて、真実を見せてあげるだけでいいの。
後は私がなんとかするからね」
その言葉は、夜の闇の中に一筋の光が差し込むようだった。




