76 美歌さん……
「ひなちゃん、なんかあったのか?」
店長の声は、いつもの穏やかさの中に、明らかな不安の色を帯びていた。
いつも冷静な彼が、珍しく顔を曇らせている。
その表情を見た瞬間、ひなの胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「……店長、その前に、電話してもいいですか?」
ひなは小さく震える声でそう言った。
喉の奥が乾いて、言葉が出にくい。
けれど、このまま何もしなければ、もっと取り返しのつかないことが起きる気がした。
「電話? あぁ、かまわないよ」
店長は眉をひそめながらも、すぐに頷いた。
彼も状況の異常さを感じ取っているのだろう。
昨日まで普通に笑っていたシュウの姿が、あんなにも“別人”のように見えたのだから。
「すみません。すぐ済ませますから……」
ひなは深く頭を下げ、息を整える間もなくバックルームへと駆け込んだ。
中は静まり返っていて、かすかに冷蔵庫のモーター音だけが響いている。
蛍光灯の白い光が、やけに冷たく感じた。
ポケットから携帯を取り出す手が震えている。
美歌さんの番号を押す指先が、かすかに汗ばんで滑った。
――どうしよう、ちゃんと伝えられるかな。
心臓の鼓動が耳の奥で鳴っている。
まるで何かに追われているような、落ち着かない感覚。
“怖い”というより、“焦り”だった。
(お願い、美歌さん……出てください)
コール音が一回、二回と鳴る。
その間にも、ひなの頭の中ではシュウの姿が何度もよぎった。
青白い顔、落ちくぼんだ頬、焦点の合っていない目。
それなのに、「健康だよ」と笑っていた――。
あの違和感が、まるで呪いのように心にこびりついて離れなかった。
バックルームのドアの外では、店長が静かに立っている気配がした。
きっと彼も落ち着かないのだろう。
“あのシュウが、まさかこんなふうに”――
そんな言葉が、ひなの脳裏を過ぎった。
「お願い、早く……」
小さく呟いたその瞬間、通話が繋がった。
その“繋がった音”が、まるで薄暗い部屋の中に光が差し込むように思えた。
ひなは胸の前で携帯を握りしめ、
震える声で小さく息を吸い込み、言葉を紡ごうとした。
「……美歌さん、聞いてほしいんです。シュウくんが、なんか……おかしいんです」
その声には、恐れと焦りと、
“もう誰かに頼るしかない”という必死の思いが滲んでいた。




