72 変わらない朝
「じゃあお母さん、バイト行ってくるね」
ひなが笑顔でそう言うと、お母さんは穏やかな眼差しで娘を見つめた。
「バイト終わったら、一度帰ってきてから出かけると思うの。だから夕方には戻るね」
「そう。わかったわ。気をつけて行ってらっしゃいね」
お母さんの声には、心配と同じくらいの信頼とあたたかさが滲んでいた。
ひなは軽く頷き、「うん」と笑うと、玄関で靴を履きながら振り返る。
その笑顔に、お母さんも自然と微笑み返した。
玄関のドアが静かに閉まると、朝の空気に残るトーストの香りと、母娘の穏やかな時間の余韻が、家の中にやさしく漂っていた。
──ひなは心の中で、「行ってきます」ともう一度つぶやきながら、バイト先へと向かっていった。
バイト先に着くと、いつもと変わらない朝の光景が広がっていた。
ガラス越しに差し込むやわらかな日差し、コーヒーミルの低い音、焼き立てのパンの香り──
ひなにとって、何度も見てきた安心できる“日常”の風景。
エプロンを結びながら、ひなは深く息をついた。
「今日も頑張ろう」そう小さく自分に言い聞かせるように呟き、いつも通りカウンターの整理を始める。
テーブルを拭き、グラスを並べ、トレイを整えていく。
けれど、手を動かすたびに頭の片隅では、ある不安が静かに膨らんでいった。
──もうすぐ、シュウが来る時間。
いつもなら、そのことを考えるだけで自然と笑顔になれるのに、今日は胸の奥が少しざわついている。
「何も変わってなければいいんだけどなぁ……」
心の中で呟く声は、どこか祈るようだった。
昨日の夜の、あの不思議な出来事。
テレビ電話越しに見えた“何か”。
そして、美歌さんの「もしやつれがひどくなっていたら泊まり込みになる」という言葉。
思い出すたびに、胸の奥がきゅっと締めつけられるようだった。
ひなは胸元で両手をそっと握りしめ、店の時計を見上げる。
針の動きが、いつもよりゆっくりに感じられた。
──あと少しで、シュウが来る。
どうか、いつもの笑顔で現れてほしい。
その願いを込めながら、ひなはカウンターの奥に立ち、静かに店内を見渡した。
時計の針がちょうど十一時を指したその瞬間、
カラン……と、裏口のドアが開く小さな音がした。
ひなの胸が、どくん、と大きく跳ねる。
──来た。
その二文字が頭の中を走り抜け、無意識に足が動いていた。
「シュウ、来たんだね」と、いつものように笑顔で迎えに行こうとしたその瞬間、
裏口に立っていたシュウの姿を見た途端、ひなの身体は固まってしまった。
まるで、息を飲む音さえも店の空気を震わせるようだった。
そこに立つシュウは、昨日よりもさらにやつれた顔をしていた。
頬はこけ、肌は少し青白く、目の下にはうっすらとした隈。
シャツの襟元から覗く首筋が、以前よりも細く見える。
「……シュウ……」




