71 嘘じゃないもん
翌朝。
窓の外は雲ひとつない青空が広がり、光がカーテンの隙間からまぶしく差し込んでいた。
ひなはその明るさに目を細めながら、心なしか昨日の重たい気分が少し晴れたような気がしていた。
「よしっ」と小さく声に出して、ベッドから勢いよく起き上がる。
髪を整える間も惜しむように階段を駆け下り、キッチンへ向かった。
そこではお母さんが朝食の味噌汁をよそっていた。
「おはよう!」
「おはよう、早いじゃない」
ひなは一瞬ためらったあと、少し声を落として切り出した。
「ねぇ、お母さん。もしかしたら、今夜から……泊まりになるかもしれない」
お母さんが手を止めて、怪訝そうに眉をひそめた。
「泊まり?どこに?」
ひなは言いにくそうに目を泳がせた。
「えっと……シュウくんのところ」
その瞬間、お母さんの表情が一変した。
驚きと、どこか笑いをこらえるような目。
「……ちょっと待って。なんでシュウくんの家に泊まるの?」
「いろいろあって……」
「そんなんじゃ分からないでしょ。ちゃんと説明しなさい」
お母さんの口調は真剣だったが、ひなはどうしても言葉を選びあぐねてしまう。
少し息を吸い込んで、勇気を出して続けた。
「実はね、シュウくん、原因不明のことが起きてるの。
まだよく分からないけど、今夜、もしかしたら解明できるかもって……」
お母さんの手がピタリと止まる。
「原因不明って、どういうこと?」
「シュウくん、最近すごく痩せちゃって……。
病院でも異常がないって言われたのに、どんどんやつれてきてるの。
だから、美歌さんが、もしかしたら幽霊が関係してるかもって」
一瞬の沈黙。
そしてお母さんが、思わず吹き出した。
「ひな、それ……もうちょっとまともな嘘、考えたほうがいいんじゃない?」
お母さんはお腹を押さえながら笑い出した。
ひなは顔を真っ赤にして、唇を尖らせた。
「嘘じゃないもん! 本当なんだよ!」
「はいはい、そうなのね」
お母さんはまだ笑いながらも、娘の真剣な表情に少し驚いたようだった。
「お父さん、信じてくれるかなぁ……」
「さぁ、どうかしらねぇ」
「だって本当なんだもん!お母さん信じてよ!」
お母さんはやっと笑いを落ち着けると、優しくひなの頭を撫でた。
「わかったわかった。お母さんは信じてあげる。ひながそう言うならね」
そう言いながらも、口元にはまだ笑みが残っている。
まるで、子どもの頃に“お化けが見えた”と言って泣いていたひなを思い出しているようだった。
ひなはため息をつきながらも、心のどこかでその笑顔に少しだけ救われた気がした。
ひなは慌てて言葉を継いだ。
「そうだ、お母さん。言ってなかったけど……シュウと二人っきりじゃないからね。
ちゃんと大人の女性の人も一緒にいるの。美歌さんって言って、すごくしっかりした人だから」
その言葉を聞いたお母さんは、ようやく少し表情を緩めた。
さっきまで半分冗談混じりだった笑みが、今度はほんのり安心の色に変わる。
「そうなの。大人の人も一緒なら少しは安心ね」
そう言いながら、味噌汁をお椀にそっとよそり、ひなの前に置いた。
「でもね、ひな。どんなに信頼できる人と一緒でも、ちゃんと連絡だけはできるようにしておきなさい。
お父さんが、もしかしたら心配して電話してくるかもしれないから」
お母さんの声は穏やかだったが、その中には“娘を見守る母親”の芯のある優しさが感じられた。
「うん、わかった。ちゃんとスマホの電源も切らないでおくね」
「そう。それでいいの」
お母さんは小さく頷くと、微笑みながらエプロンの裾で手を拭いた。
その笑顔には、
“もう子どもじゃないんだね”という少しの寂しさと、
“でも信じているよ”という深い理解が滲んでいた。
「気をつけて行くのよ、ひな」
「はーい、わかりました」
ひなは笑顔で答えながらも、心の奥が少し温かくなるのを感じていた。
母の理解が、これから向かう“少し不思議で怖い世界”へ足を踏み入れる勇気を、静かに支えてくれているようだった。




