67 それね
「そういえば……」
私はストローを指先でくるくる回しながら、ふと口を開いた。
「シュンの友達のこと、思い出したんです」
美歌さんがカップを口元に運びかけて、少しだけ視線をこちらに向けた。
「その友達、原因不明でしばらく入院してたんですけど、いきなり元気になったって聞いて」
自分でも何気ない世間話のつもりで話し始めたのに、
声のトーンが少しずつ落ちていくのがわかった。
「それがね、なんか……鎌倉にある“お化け屋敷”に行ったらしいんですよ。肝試しみたいな感じで」
私は笑おうとしたけれど、うまく笑えなかった。
「シュウは最初、全然乗り気じゃなかったみたいで。
でも、その後たまたま道に迷って、偶然その屋敷の前に出ちゃったって……」
美歌は黙ってひなの話を聞いて頷いていた
「で、その屋敷で友達のことを思い出したみたいで、
シュウが“あの時は悪かった”って謝ったらしいんです」
自分で話しながらも、
どうしてその話を今しているのか、自分でもよくわからなかった。
ただ、胸の奥に引っかかっていた何かを、無意識のうちに言葉にしていた。
「そしたらね……友達の容体が急に良くなったって」
言い終えた瞬間、ふっと空気が静まった。
店内のざわめきも遠のいたように感じる。
その時だった。
美歌さんが、まるで“全部わかっていた”かのように
軽く息を吐いて、静かに言った。
「——それね」
たった一言。
でも、その声には不思議な重みがあった。
まるで、ただの偶然や奇跡じゃなくて、
“理由”がそこに存在していると、確信しているような言い方だった。
私は思わず身を乗り出して、
「知ってるんですか?」と聞こうとしたけれど、
言葉が喉の奥で詰まって出てこなかった。
美歌さんは、すぐには続けず、
ほんの少しだけ、テーブルのコップの水面を見つめていた。
静かな沈黙の中で、氷が小さく音を立てて揺れる。
そしてその音が、妙に胸の奥に響いた。
——いま、美歌さんが言おうとしていること。
それを聞いてしまったら、もう“戻れなくなる”ような気がした。
「わかった。もう大丈夫だからね。また連絡するから。」
彼女はそう言って、やわらかく微笑んだ。
「私が2人を守るから、安心して。何かあったらすぐに連絡してね。ひなちゃんの番号も登録しておくから。夜中でも、遠慮しなくていいからね。」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥にじんわりと温かいものが広がった。
ずっと張りつめていた緊張が、少しずつほどけていく。
あんなに怖くて、不安で、どうしていいかわからなかったのに——今は、その人の声を聞くだけで、不思議と落ち着く自分がいた。
“この人なら、本当に守ってくれるかもしれない。”
そんな思いが自然に浮かんできた。
緊張という糸が静かにほどけていくたびに、ひなの中でそれは尊敬へと形を変えていった。
頼もしさと優しさが同時に胸に染みて、彼女を見つめる目が、少しだけ違うものになっているのを自分でも感じた。
夜の静けさの中で、ひなは小さく息を吐き、心の奥でそっとつぶやいた。
——この人に出会えて、よかった。




