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64/114

64 始まり


ひなは、震える手でコースターに書かれた番号を見つめていた。

数字がゆらゆらと滲んで見える。

深呼吸をして、意を決して発信ボタンを押す。


……コール音が、夜の静寂の中に吸い込まれていった。


——トゥルルル……トゥルルル……


1回、2回、3回。

その間、部屋の空気がどんどん冷たくなっていく気がした。

もう切ろうかと指を動かしたその瞬間——


「……シュウくん? それとも、ひなちゃん?」


突然、電話口から美歌の声が聞こえた。

名乗る前だった。


ひなは息を呑んだ。

思わず言葉を失い、しばらく声が出なかった。


「私、ひな……です」


ようやく搾り出した声は、自分でもわかるほど震えていた。


「そう……やっぱりね」


美歌の声は、落ち着いていてどこか“分かっていた”ような響きがあった。

まるで、ひなが電話をかけるのを待っていたかのように。


「異変に気がついたの?」


彼女の言葉に、ひなの胸がドクンと跳ねた。

“異変”——その一言が、ずっと心の奥でくすぶっていた不安を形にした。


「……はい、なんか、変なんです」


言葉にした瞬間、涙が込み上げそうになった。

美歌の声が、電話越しに少しだけ優しくなる。


「どんな感じなの? シュウくん、どうしたの?」


その問いかけは、ただの心配ではなく、“確信”があった。

まるで、すでに何かを見ている人のような口ぶりだった。


ひなは混乱した。

どうして、まだ私、何も話していないのにそんなことを聞くの?

どうして、シュウに“何かが起きた”と分かるの?


心の奥で、ざわりと不安が広がる。

けれど、電話を切ることはできなかった。

むしろ、話さなければいけない気がした。

——この人だけは、何かを知っている。


「……あの、さっきテレビ電話してて……」


ひなは、ゆっくりと、あの時見えた光景を語り始めた。

シュウの後ろに現れた“歪んだ影”のこと。

部屋の空気が揺らいで見えたこと。

そして、確かに聞こえた“子どもの声”のことを。


語りながら、自分の声がかすかに震えているのがわかった。

でも、美歌は一度も遮らなかった。

ただ、静かに、すべてを聞いていた。


やがて、ひなが話し終えると、電話の向こうで小さくため息が聞こえた。

それは安堵でも、驚きでもなく——覚悟を決めたような深い息だった。


「……やっぱり、始まってるのね」


美歌の低い声が、夜の闇の中に静かに落ちた。

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